E S S A Y
Essay from Kudanzaka Hospital |
九段坂のちょっとおかしな入院ライフ
九段坂病院 入院日誌
〜脊柱側彎症 変性増進による腰椎変性後側弯症の手術と療養の日々〜
中井修先生による腰椎変性後側弯症に対する後方前方後方三段階矯正固定手術
田 中 恵 子
「脊柱側弯症の手術について〜患者の立場から〜」は こちらから
術後3周年記念写真 執刀医の中井修先生と
2011年12月
with Dr.Nakai
1.小さな引っ越し |
2008年11月25日火曜日、私は小さな引っ越しをした。 引っ越し先は皇居のお隣、千鳥ヶ淵に隣接し、武道館と靖国神社至近の都心の一等地 である。その引っ越しを世間では入院と言っている。 カットソーにピンクハウスのキャミソールとスリムパンツにフリースの上着という気楽な 格好で、主人の運転で九段坂病院に着いたのは、まだ6時過ぎだった。 平日の通勤による渋滞を避けるためと、九段坂病院には駐車スペースがたった6台分し かないため、早朝に狭山市の家を出たのだった。 7時を過ぎると患者がパラパラと訪れるようになった。 事務室で入院の手続きをして、3階病棟の一番端の部屋319号室に案内された。 南東向きのその部屋には暖かい日差しが差し込み、良き未来を暗示するように感じられ た。この部屋で2カ月暮らすことになる。 担当の看護師さんが来てくれるのを主人と母と一緒に待っていたが、30分もすると私 は疲れてベッドに斜めにゴロンと寝ころんだ。 その時すでに私の脊椎は上体を長時間支えることが出来なくなっていた。 それでも1週間前まで絵を描いていた。 その最新作の小品を個室に飾ろうと持ってきた。 程なく看護師さんが来てくれて、入院生活の説明が終わると病棟を案内してくれた。 途中で身長を測定した。看護師さんが書類に記入していたが、145センチだった。 最も高かった高校の頃157センチあった身長が脊椎の湾曲とねじれが酷くなり、ここまで 縮んだかとがっかりしたが、手術によって5センチは戻る予定であった。 私の部屋は本館で、新館と渡り廊下でつながっていたが、本館ははっきり言ってボロ だった。しかしすぐに、病院スタッフの温かさを肌で感じ、かえって住み心地の良い場所 となった。 ロッカーとチェストに衣類やタオルなどをしまい、窓辺には古楽の巨匠ヴィーラント・クイ ケン氏とのツーショットの写真を入れた写真たてを飾った。 入院のために主人が用意してくれたソニーの新製品デジタルフォトフレームをチェストの 上に置いた。2カ月前の個展でヴィオラ・ダ・ガンバの師千成千徳先生とデュエットの演 奏をした写真が数十枚、10秒おきに次の写真に替わるように設定してある。 最新作のバラの絵を飾った。 専用スピーカー付きウォークマンも持ち込んだ。もちろんイヤホンも用意してあった。 パソコンも私には必須の物だった。こうして殺風景な病室が私の部屋らしくなった。 病院での初めての食事はその日の昼食だった。 ここでさっきの身長測定が反映されていた。 メタボ防止のため、身長によってご飯の量が決められていて、その説明の紙がトレーに 乗っていた。 もう一枚の紙には部屋番号と私の名前と食べられないもの、そしてご飯は100グラムと 書かれていた。 身長が150センチ以下の人はご飯の量は100グラムと決められていたのだった。 術後は150センチ以上になる予定だ。今に見ておれ!と密かに思った。 私は院長の中井修先生の手術を受けるのだが、中井先生は院長職もあって忙しいの で三宅先生が入院中の主治医となっていた。三宅先生が部屋に診察に来てくれた。 その後、検査室に行って、心電図と肺機能の検査だった。 心電図が終わった時、検査担当の女性がにっこりして私の顔を覗き込んだ。 私は不安そうな顔をしていたのだろう。すぐに笑顔を返した。 私は下着がもとどおりにならなくてちょっと苦労していただけだったのだが・・・。 この病院のスタッフはいつも笑顔なのだと気がついた。 仏教では和顔施と言い、相手に笑顔を見せることは布施行の1つとされ功徳のあること なのだ。私も入院中、笑顔でいこうと心に決めた。 入院当日の検査は残るはレントゲンだけだった。長時間かかったわけではないのに 横になった撮影の後、寝たままの姿勢で、ちゃんと写っているか確認のため現像を待っ ている間にうかつにも眠ってしまった。 大変な検査があったわけでもなかったが、早朝から起きていたし、入院というのは私に とっては初めての経験であったし、大きな手術を控えて、気づかぬうちに精神的にも疲れ ていたのかもしれない。 レントゲン室から個室に帰ると、もう夕食が届いていた。 食いしん坊の母は、ふたをしてある料理の中身が見たくて仕方がなかった様だが、主人 が本人に開けさせようと母を止めていた。 九段坂病院の食事はとても美味しかった。 地味な和食が中心であったが、薄味でもダシが効いていて、こんなに沢山とても食べら れないと思う煮物も、気づかない間に空になっていたりした。 酢の物にもダシ汁が使われている様で、味がソフトで美味しかった。 食後、シャワーを浴びた。 運良く空いていたが、病棟の共同のお風呂の順番取りは、結構大変な日もあった。 こうして入院初日の行事は終わり、主人と母は安心した様子で帰って行った。 このページのTOPへ戻る |
2.中井先生との出会い |
一昨年(2007年)、相当危機感を感じていた。 ここ数年で目に見えて私の脊椎の変形が進んだ。 身長も明らかに急に縮んだ。もう20年以上も受診もせず、ほっぽらかしのままだった。 さすがに不安になって病院を探していた。 以前の病院には距離的に通えそうもなかったし、いつも担当医師に怒られていたから、 今度かかるなら絶対に優しいお医者さんと決めていた。 脊椎側弯症は、何か不摂生をしたから悪化する病気ではなかったのに、高校時代の自 分はなぜだか受診の度に、担当医師に叱られて、母と共に精神的ダメージを受けて帰宅 した。 何よりも辛い思い出であった。 成長期を過ぎれば軽度の人は固定する。 しかしコルセットとリハビリの甲斐もなく、重度まで進行していた私は、いずれ手術を受け なければならないと、22歳の最後の診察の時に言われていた。 最初に私がインターネットで九段坂病院を見つけたのだった。 そしてグラフィック・デザイナー時代の会社の先輩の甥、ヒロ君先生に相談した。 ヒロ君先生は医大生の時から知っていて、もう立派な整形外科の医師になっているとい うのに、名字に先生をつけるとどうもしっくり来ない。 入院中に呼び名を勝手に決めた。 もともとの呼び名「ヒロ君」に「先生」を付けると妙にしっくり来るので、主人との間では 「ヒロ君先生」となっている。 ヒロ君先生は脊椎脊髄専門の信頼できる医師のいる病院を九段坂病院を含め3つ推薦 してくれた。 通いやすさを考え、主人が九段坂病院を選んだ。 その時はまさかこんなに早く手術というようなことになるとは思ってもいなかったのだが。 ヒロ君先生は九段坂病院に紹介状を書いてくれた。 九段坂病院のホームページを見た。 千鳥が淵側から桜の背景に九段坂病院が写っている写真が気に入った。 とても心が和むのを感じた。 そして整形外科のどの先生に受診するか決めなければならなかった。 先生方の紹介のページを開き、写真を見て、一番優しそうな先生、「この人!」と決めた。 中井修先生だった。笑顔が印象的だった。 中井先生の診察日を見ると「要予約」となっていたので、初めて九段坂病院に電話をし た。整形外科につないでもらい「院長の中井先生にお願いしたい。」と言うと、 「中井先生は紹介状が必要です。」と言われた。 いつも控えめな私がなぜかすごく元気に大きな声で「紹介状あります!」と答えた。 次に「どこの病院からの紹介状ですか?」という質問だったので、息巻いて 「東大病院です!」と答えた。 その様にして中井先生の受診予約を獲得した。 何かの必然性に従って中井先生にたどり着いたかのようだった。 2007年11月、初めての診察の日がやって来た。 母と病院のロビーで待ち合わせしていた。 私は主人とご機嫌に元気よく、杖は一応持って、予定時間に病院に着いた。 母は到着が早すぎたらしく、待っているうちに不安が増幅してしまっていたようだった。 受付を済まして整形外科外来の前で待っていた。 順番が来て母と診察室に入った。 初めて会った中井先生はゆったりとした雰囲気と笑顔で私たちを迎えてくれた。 「あっ!ホームページの写真より本物の方がいい!」 前屈や後屈、横に身体を曲げたり・・・「痛くない?」と先生が尋ねる。 「あれ?右か左に曲げると痛いはずなのに今日は痛くない。おかしいな〜。」 すっかり私の気持ちも和んで笑顔になっていた。 あっと言う間に中井先生が大好きになっていた。 「じゃぁレントゲン撮ってきてください。」 以前の病院は先生は怖いし建物は古くて陰気だったので、今度は先生が優しくて建物 が新しくてきれいというのが理想だったが、前者の条件は見事に満たされたが、後者 の条件は満たされなかった。 2階のレントゲン室はますますひどく、ドアはペンキがはがれていた。 たぶんストレッチャー(寝台車)などで何度も擦ったのだろう。 レントゲン室は3つあったが、そのペンキのひどくはがれたドアのレントゲン室で撮影と なった。 立った姿勢での撮影から寝た状態での撮影となった。 固いレントゲン用のベッドに仰向けに寝た時、「痛くないですか?大丈夫ですか?」と 技師さんに尋ねられた。 「あ、大丈夫・・・」と答えたが、やはり固いところに寝ると特に変形の酷い部分が痛んだ。 でも、その様な技師さんの気遣いに心が温まった。 必要な部分全体が1枚の写真におさまらないので、上下2枚撮影し、 「これで良いかどうか、中井先生に尋ねてきますから、ちょっと待っててください。」と言っ て、技師さんは中井先生のところに走って行った。 そんな技師さんの一生懸命な姿に、この病院の本質を見た思いがした。 レントゲン室を出る時には、ドアのペンキを私が塗り直してあげたいとさえ思う様になって いた。 再び中井先生の診察室に呼ばれた。 「手術適応です。」 私は一瞬凍りついた。 とりあえず心配だから受診してみようという軽いノリだったのだ。 もし手術するなら10年先、早くても5年先と考えていた。 高校時代から手術を恐れ、手術して脊椎を全て金属で固定してしまったら、やりたいこと が何もできなくなってしまう。 それまでにやりたいことは全てやりつくすと決め、常に全力疾走で生きてきた二十数年 間の日々が走馬灯のように脳裏を駆けめぐった。 「しょうがないでしょう。ここまでひどいんだから、手術するしか・・・」 遠くで先生の声がした。 とにかく私は精一杯やってきた。 この年までやってこられたのだから良かったではないか。 「あのレントゲン出して。」と先生は看護師さんに指示した。 そのレントゲンを見ながら、 「腰椎を5つね、こんな風にゆるやかに矯正して固定しましょう。ああ、私も身体が硬くて ここまでしか曲がらないけど困ってないです。」と言って、先生が前屈して見せてくれた。 笑いを誘われた。 私には長い時間に感じられたが、ほんの1分間くらいのことだったろう。 私は観念した。 「脊椎はくにゃくにゃしていたら役に立たないけど、固定されていてもしっかりしていたら 役に立つんです!」専門医のこの言葉に、突然意識改革した。 固定されて動かなくなることをずっと恐れていたけれど、現在の私の脊椎は本来の脊椎 の役割をあまり果たしていないと言える。 手術して固定すれば、私の脊椎は本来の役割を果たすようになるのだ! 胸椎から腰椎全ての固定手術と思って長年悩んでいたが、その半分の腰椎だけなら 思っていたほど不自由にはならないはず。 先生の言葉が続いていた。 「絵を描く人なんですよね。絵を描いてて背中痛かったでしょう?」 「はい、そうですね。長時間になると・・・。でも座って描いていればある程度は大丈夫 ですけど・・・。」 「手術したら、立って絵が描けるようになりますよ。」 先生は時々、母の方に視線を向けて「大丈夫ですよ!」と目で語っているようだった。 「来月から手術時の輸血のために自己血を採り始めて、2リットル貯まったら、来年1月に 手術できますよ。」 先生の話を聞きながら別の部分で脳がフル回転していた。 来年1月はコンサートの主催。もうチケットも半分以上売れているし・・・。 古楽情報誌アントレの表紙の絵の連載は、来年1年間延長して引き受けてしまったし ・・・。秋には隔年のギャラリー・ベルハウスでの個展もあるし・・・。 「あの・・・すぐにしないといけない状態なんでしょうか?」と先生に尋ねた。 「すぐじゃなくてもいいけど、ここの部分が固まってしまうといけないから、数年のうちに した方がいいですね。」 「では、一年後にしてください!」と母の方も振り返らず、主人にも相談せず、独断即決! 診察室からロビーに出た。 主人に「手術適応!」と言った。 なぜか私の気持ちは晴れやかだった。 この先生が長年苦しんできた私の身体を楽にしてくれる。そう確信を持った。 そして驚くべきことに、10年来の不眠症がその夜にピタリと治ってしまった。 このページのTOPへ戻る |
3.音楽家の間で有名な九段坂病院 |
2008年4月は地元狭山市の自家焙煎コーヒーの店「カフェ・ド・ちゃぁみぃ」での毎年 恒例の個展を開催した。 常連のお客さんや毎年私の展示を楽しみにしてくれている、地元の方々が来てくれる。 私も店の常連客の一人であり、年に1度、2週間、自分の絵を展示して好きな古楽のCD をかけてもらって、自分もお客さんと共に楽しむのだが、今年ばかりはそうはいかなかっ た。 古楽情報誌アントレ200号記念号の表紙になる作品の制作の真っ只中だった。 2月のパネルの発注で2回トラブルが続いて、制作に取りかかるのが遅れていた。 時間がかかる絵画技法であるため、締め切りから逆算してギリギリの制作予定を立てて いた。 20号変形は私にとっては大きめのサイズなのだが、3カ月の制作期間で果たして予定 通り仕上がるのだろうか? 今までも3カ月の予定が、5カ月半かかってしまった事もあった。 前作は8号で、2カ月半の予定が、足かけ5カ月かかってしまったばかりだった。 しかし今回は完全に締め切りが決まっていた。 どうしても遅れることの出来ない状況であった。 中井先生は私のレントゲンを見て、1月に手術の提案をしてくれた訳だから、身体が 辛くなることがわかっていたのだろう。 そう言えば私が「1年後」と言った時、「早い方が楽なのに」と言われたのを思い出した。 前年までは、絵の制作を1日12時間以上続ける日もあったし、徹夜で朝まで制作する こともあった。 絵画制作は作業ではないので、よほど気持ちが集中しないと、私の場合制作が出来な かった。一旦集中すると、なかなか中断することも出来なかった。 しかし2008年に入ってそんな事は言っていられなくなった。 連続して起きていられるのはせいぜい6時間。 だいたい背中や脇の筋肉が痛くなって寝なければならなくなってしまう。 少し休んで制作を続けようと思っても、もう集中力は失われていた。 春頃には1日3〜4時間しか制作しないと決めた。 というより、それ以上出来ない状況になっていた。 そのため個展会期中も、ほとんど自宅で制作したり休んでいたりした。 連絡があった場合だけ会場に行った。 事前にメールで連絡をもらっていて、聖フランチェスコの音楽を研究している宗教音楽 家の杉本ゆりさんが来てくれた。 私が店に着いた時には、ゆりさんはもうコーヒーを注文していて、 「この絵に惹かれてこの席に座った。」と言ってくれた。 その絵は「時のはざま」と題した絵で、実はゆりさんと関係のある絵だった。 語る事が出来ないから描くのだから、私は自分の絵について極力語る事はしなかった が、この絵を描いたきっかけが彼女にあったので、少し経緯をお話した。 彼女は「詩と音楽の時」というシリーズのコンサートを続けていて、数年前、伊藤海彦 さんの詩「夢の汀」という詩の朗読と演奏があった。 私は文学というものにはあまり縁がなかったが、現実の世界と夢の世界を行き来する、 その詩に魅了された。 私は常に自分のテーマに基づいて自発的に絵を描いていたが、この時はその詩が動機 付けとなり、構成が決まって、描き始めた。 このような事は初めてだったので、どの様な結果になるか自分でもわからなかった。 でも描き進めるうちに自分の宗教観と結びついて、自分の中にしっかり根を下ろす作品 に完成した。 私は仏教、ゆりさんはカトリックだが、絵を通して宗教を超えて理解し合えた、その様な 歓びを得ることができた。 ゆりさんは私の身体の事を心配してくれていたので、手術する事になった事を伝えた。 「どこの病院で?」と尋ねられたので、 「ご存知ないと思うけど、九段坂病院。」と答えた。 「九段坂病院は有名ですよ!音楽家の間で。N響の常任指揮者だった岩城宏之さんが 頸椎の手術を受けた病院で、そのエッセーも出版されてるから。」とゆりさんは言った。 家に帰ってインターネットで岩城宏之さんを調べた。 あったあった!「九段坂から」という本が! 翌月には中井先生の診察予約をしていた。 今度は主人と一緒に診察室に入った。 その日の中井先生はなぜだか消極的で、 「省エネって方法もあります。ここだけやるっていう・・・。大工事じゃなくて中工事。」 前回みたいにニコニコしていないし、なんだか元気がないな〜先生。 主人にはネットの写真より本物の方がずっといいから、と言ってあったのに・・・。 6月から後部座席も高速道路ではシートベルト着用が義務づけられるので、それが出来 ないため診断書を書いて欲しいと先生にお願いした。 その時既に私は車での移動の時、後部座席に斜めに寝て目的地に運ばれていくのが 常だった。 シートベルトの事から先生が面白い話をしてくれて、先生も私たちもニコニコ顔になって いった。 手術の方は前回のお話どおり、背中とお腹を切る8時間の手術をお願いした。 理由は再手術はイヤだったから。大変な事は1回で終わらせたいですからね。 診察が終わってから売店に偵察に行った。 岩城宏之さんの本「九段坂から」がレジの前に平積みになっていたので買って帰った。 読んで驚いた! 岩城さんの手術を担当したのは現在顧問の山浦先生と私の手術をしてくれる中井先生 だったのだ! 先程の診察で念のためうかがったのだった。 「中井先生が手術してくださるんですよね?」 「誰でもって出来る手術ではありません。」という答えだった。 それは中井先生しか出来ないという意味だったのだ。 不思議な偶然か必然か、私は日本屈指の名医にめぐり逢っていたのだ。 懸念していた20号変形の作品は、無事締め切り直前に完成した。 題名は「邂逅」とした。 素晴らしい人たちとの出会いがあって今の私がある。 そしてついにめぐり逢った中井先生に手術をしてもらうのだ。 9月の受診の時、先生に会うまでちょっと不安な気分だったのだが、先生の笑顔を見 たら急に安心して元気が出てきた。 先生が手術日を12月1日月曜日と提案してくれた。 とても良い日のように感じられ、「その日にお願いします。」と答えた。 再度手術方法の説明をされたが、手術予定時間は10時間だと言う。 「先生、いつの間に2時間増えたんですか〜?」私はすっかり冗談モードになっていた。 血液検査と心電図の検査を受けた。血液検査の用紙には「Ope至急、医師:中井」と書 かれ、全ての項目に○が付いていた。 「Ope至急」で院長の名前を見た担当者は、この人は相当深刻な状態なのだろうと思っ ただろう。私も一気にOpeの気分になってきた。 入院の手続きもした。 「もし検査で問題があれば、その治療をしてからという事になります。」と言われたが、 その後何も連絡がなかったので、脊椎以外は私は健康ということが証明された事にな る。 10月のギャラリー・ベルハウスでの個展、手術前最後のイベントに向かって準備を進 めていった。 以前のように、体力に任せて数日徹夜で準備をするなんてことは、到底出来る身体の 状態ではなかった。 日中も半分は寝ていなければならないような状況だったので、じっくりとじっくりと計画ど おりに準備を進めていった。 作品の展示と、福沢宏さんのヴィオラ・ダ・ガンバと金子浩さんのリュートのコンサートの コラボ企画の上、会期2日目には私もヴィオラ・ダ・ガンバの師と演奏するという、術前最 後の無謀な企画であった。 このページのTOPへ戻る |
4.自己血採取 |
無事個展を終え、手術の5週間前に当たる10月最後の週、自己血採取が始まった。 他人の血の輸血による危険性を回避するため自分の血を貯血するのだ。 可能であれば、毎週400ccずつ5週続けて、計2リットル採取する。 整形外来に午後2時半に到着。検査票を受け取って血液検査のため検査室に行く。 いつも貧血と正常の間を行き来している私の血液は今日はどうなのだろう? 貧血ではなかったらしく、3時半過ぎて整形外来の処置室に呼ばれ、寝かされて右上腕 を駆血帯で締められる。 今まで献血の経験は1回だけ、200ccだった。 400ccも採られたらどうなることやら・・・? 看護師さんたちは心細い私に、いつものように明るく優しく接してくれた。 中井先生の診察室は隣で、壁一枚を隔てているだけだった。 中井先生が話す声や笑う声が時々聞こえた。 診察が終わったらしく、寝かされている私の視野の右上から、中井先生の顔がヌッと現 れた。 先生の顔を見たとたんに不安は消え失せた。 「先生こんにちわ!」と陽気にごあいさつ。 看護師さんは外側の血管が良さそうねと言っていたけど、先生は真ん中のが、ちょっと 隠れてるけど良さそうだと言って、針を刺した。 刺される時は少々辛かったが、採血が始まると楽になった。 あまり勢い良くはなかったけどなんとか順調に採れているらしい。 採血の機械は前後に揺れていて血液が固まらないようになっている。 血液の勢いによって緑・黄・赤とランプが点くらしい。 「黄色でもちゃんと最後まで採れる人も多いから。」と看護師さん。 私もずーっと黄色信号だったらしい。 もう15分以上経った頃、機械に引っ張られる感じというか、吸われている感じがして 辛くなってきた。 これが長く続いたら耐えられない・・・と思った頃、400ccの採取が終わった。 中井先生は時々様子を見に来てくれて、最後に針を抜いてくれた。 「今日の血管、来週も使いたいから大切に、しっかり押さえといて。じゃあ、また来週。」 と言って目で合図して、先生は会議に行ってしまった。 私は看護師さんに褒めてもらい、採血したところを脱脂綿の固まりで押さえながら、少し 横になったまま休んで、その後増血剤の注射をしてもらった。 結構痛い皮下注射らしいが、あまり痛みを感じなかった。 私はやはり赤血球の値が低かったらしく、1回目から増血剤のお世話になり、また鉄剤 も処方された。 処置室からロビーに出ると、主人と母がぐったりして待っていた。 私は起き上がってもフラフラしなかったし、痛いと言われていた注射もあまり痛くなかっ たのでケロッとして、なぜだか3人の中で一番元気だった。 母は血液検査だけでも具合が悪くなってしまう人で、私の採血がなかなか終わらない ので心配になって、ぐったりしてしまった様だった。 実際は採血時間より、ただ寝ている時間の方が長かったので、私としては脊椎の疲れ も取れて楽になっていたのだった。 血液を作るために、鉄分の多い食物や良質のタンパク質の摂取が必要だ。 しかし鉄分の豊富なレバーが食べられないので、毎週の採血など私にはとても無理だ と思った。 母は雑魚のたずくりや大豆の煮物を作って、持って来てくれた。 うちに来て、切り干し大根の煮物やひじきの煮物などを作ってくれた。 プルーンが鉄分が多いと病院からもらったリーフレットに書いてあったので、ある時買っ て来たが、どうも苦手で、毎日やっと1つ食べるという状態だった。 2回目の採血の日、体調が悪く、とても無理と思ったが、検査の結果はぎりぎり貧血 ではなかったらしく、また処置室へ。 寝かされて少し経つと、また中井先生が右上の視野からヌッと現れた。 またしても先生の顔を見ると元気が出た。 「あれ〜?先週の血管いじめちゃったから細くなっちゃったみたいだね。」 一瞬で元気なくなった。 仕方なく外側の血管で採取した。 なぜか1回目より順調に採れているような気がした。 でも黄色信号であることには変わりがなかったようだ。 先生が途中で「青にならないかなー」と言って、針か管をいじったら 「あっ青になった。あれ?赤になっちゃった。あ〜黄色に戻った・・・。」 「せんせー!」私は青くなった。 結局、黄色信号で今回も採り終えた。 ある時主人とインターネットで調べた。 干しぶどうがプルーンより鉄分が豊富なのがわかった。 当然チーズは良質のタンパク質の摂取にはもってこいだ。 主人がチリのワイン用のブドウの、枝付き干しぶどうを買ってきてくれた。 チーズは日によって変わるがパルミジャーノレジャーノ、ミモレット、コンテ、グリエール など・・・。赤ワインも血液を作るのに有効とわかった。 この黄金のトリオを入院まで、採血の日以外毎日摂取し続けた。 ワインは主にボルドーのシャトー物、毎晩二人で1本空けた。 時々はグランクリュも開けた。 赤ワインは楽しい!特にボルドーの赤は! 二人で味の変化を楽しみながら、チーズとのマリアージュを楽しみながら、中井先生や 病院ネタでしゃべりながら笑いながら。 毎晩赤ワインを飲み、チーズと干しぶどう、サラダにローストビーフ、時にはラム。 朝昼は母が作ってくれた煮物や焼き魚などを食べていた。 3回目の採血の日、2回順調に採血できると次の回も出来るような気になるものだ。 黄金トリオも実践していることだし。 今回も貧血ではなく、採血に臨んだ。 相変わらず黄色信号だが、そのまま採り終える予定。 また中井先生が「強制的に青信号にしてみましょう。」と言って、何やらいじったら 「あれ?赤になっちゃった。あっ青になった。あ〜黄色に戻った・・・。」 「せんせー!もう触らないでください!」 そんなコミュニケーションをしながら採血が終わった。 「じゃあまた来週!」先生は口の端をちょっと持ち上げて笑う。 4回目の採血も黄色信号で始まった。 少し経って「もう半分採れましたよ。」と看護師さんに言われた。 今日はなかなかペースが早い。黄色信号でも青寄りの黄色信号だ。 今日は外来最後の採取日で、来週はいよいよ入院だ。 いつも中井先生は採血中は立ったまま、時々様子を見に来ただけだったのに、今日は 椅子を引っ張ってきて私の横に座った。 ここで手術の話など、深刻な話になるのが普通なのかな?とも思ったが、また青信号に されたり、赤信号にされたりする心配もあったので、 「先生、黄色でいいですから、私はゆっくりマイペースでいいですから、触らなくても いいですから・・・」とふざけ半分で言っていた。 「あれ〜ペースが落ちたねー」と先生は言ったけど、絶対にいつもより早く採り終わった。 増血剤と鉄剤のお世話になっているけど、毎回ちゃんと元の数値に復帰しているので、 看護師さんたちはいつも褒めてくれたが、先生も今回くらいは褒めてくれてもいいのに と思っていると、先生は針を抜きながら 「採っても採っても湧いてくる造血マシーンだね。」と言った。 褒めてんだかどうなんだか、ちょっと引っかかるけど、まあいっか。 こうして4回の外来での自己血採取をクリヤーした。 このページのTOPへ戻る |
5.脊髄造影 |
入院2日目、まずは尿検査のための尿の採取から始まった。 次にナースステーション前のロビーで血液検査のための血液採取。 ちょうど12時にMRIに呼ばれた。 最近は普及してきたのでご存知の方も多いと思うが、磁気共鳴映像法と辞書に書いて ある。CTの経験はあったが、MRIは初めてだった。 何にでも興味を持つ私は、ぜひ一度体験してみたかった。 衣類は着ていて良いが、金属のものは全て外さなければならない。 細いベッドに寝かされて、そのままドラム型の機械の中に引き込まれ、ベッドがゆっくりと 動いて、撮影する。 それにしても定期的に不愉快な金属の低い鈍い音、少し高い音が繰り返される。 音には敏感な私はこの不愉快さに耐えかねた。 痛いわけでも何でもないが、1/f ゆらぎと対局をなすような不愉快な音の中、私はいつ しか眠ってしまった。 あの不愉快な音の中で眠れるとは!と自分でも驚いた。 入院中は首にかけるIDカード入れに診察券を入れて、検査の時などは必ず持っていく ことになっていた。 私はベビー・ピンクハウスのウサギのハンドパペットを首から下げ、そのウサギの首か ら診察券を下げていた。 術前も術後もそのウサギを首から下げて院内を行き来していたので、一目でどこの誰か わかりやすかったと思う。 夕方最後の自己血採取がある。 そのために再度、血液検査に2階の検査室に呼ばれた。 検査室の前の廊下で、隣に座って順番を待っていた男性に話しかけられた。 今日は5回目の自己血採取で、今日採れれば2リットル貯まるのだと、ちょっと自慢して みた。 「じゃあ大きな手術なんだね。」と来る。 「そうなんですよ。10時間の大工事。」またちょっと自慢。 その男性は「前回の手術はもっと短時間の予定だったのが、結局10時間かかって、 800cc採っておいた自己血が足りなくなって、日赤の血を使ったんだ。」と言う。 その手術のおかげでとても良くなったんだけど、何年か経って、また痺れが酷くなって 再手術なのだそうだ。 手術経験者にちょっと尋ねてみたかった。 まだ手術の実感がなかったのか、怖いと思ったことはなかったが、直前に怖くなるかも しれないから、 「ちょっと手術怖いんですけど・・・」と言ってみた。 「手術?全然怖くないよ!」彼は当然のごとく自信を持って答えた。 へーそんなものなんだ!と、なぜか妙に納得し安心した。 そして後で思った。み仏のお働きかと。 例えば奈良の大仏は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)であるが、右手を上げて掌を私た ちに向けてくださっている。 これは施無畏(せむい)の印といって、字のごとく畏怖の心を無くすことを施す、恐れを 無くして安心させてくださるお働きを示している。 み仏がその人をして、私の手術に対する恐れの心を無くしてくださったのではないかと。 血液検査は今回も貧血ではなかったらしく、夕方三宅先生と看護師さんが私の個室 に自己血採取に来てくれた。 自己血採取のための針は、普通の血液検査の針の何倍もの太さがあるので入りにくい ということだが、三宅先生はとても上手にほとんど痛み無く針を刺してくれた。 400cc採取するには10分以上かかるので、雑談をして時間を過ごした。 ヴィオラ・ダ・ガンバを演奏している写真がチェストの上に置いたデジタルフォトフレーム に再生されているので、最初は演奏家だと思われたらしい。 それは趣味で仕事は絵描きなんだとか、いろいろ・・・。 無事5回、2リットルの自己血採取が完了した。 後で聞いた話では、全回採れる女性は少ないらしい。 これだけでも手術のリスクが少し減ったことになるし、自分の体力に少し自信が持てた。 遅い時間になって、追加でレントゲン撮影するという。 寒くて暗いリハビリ室に連れて行かれた。 レントゲン機がその部屋まで移動してきていた。 牽引用のベッドで、牽引した状態のレントゲン写真を撮った。 入院3日目、今日は脊髄造影の日だ。 昨日三宅先生に言われて、すかさず「造影剤入れるの痛いんですか?」と尋ねた。 「麻酔の注射するし、最近は造影剤が良くなって、たった10ccですから。」 1センチくらいを指で示す。ということなので、一応安心した。 脊椎は当然身体を支える役割をしているわけだが、脊椎の中に頸椎から腰椎まで細 長い袋状になった脊髄があり、髄液の中に神経が入っている。 脊髄がどの様な状態になっているかを、髄液の中に造影剤を入れて撮影するのだ。 午後2時30分、脊髄造影にレントゲン室に呼ばれた。 どうやら以前から気になっていたSFに出てくるような、カッコいいレントゲン機にかかる ことになるようだ。 一度このレントゲン機で撮られてみたかった!などと一瞬楽しみな気分になったが、 その部屋から出てきた女性が車椅子でぐったりしているのを見て、青ざめた。 名前を呼ばれて、そのレントゲン室に入った。 ベッドが自由に動くようになっている様で、金属が弧を描いている大がかりな機械だ。 ガラス張りの向こうにコントロールルームがあった。 レントゲン機のベッドに後ろ向きに寝て、膝を抱えて背中を丸めるように言われた。 楽しみな気分などどこへやら・・・。 不安な気分が満ちてきた頃、三宅先生の声が聞こえてホッとした。 後ろ向きに寝させられていたので、そのまま「三宅先生?」と尋ねた。 「まず麻酔の注射しますからね。」チクチクと何度も打たれた。 何度も打たれたので、もう針も入ったのかと思ったら、 「これからです。」と言う。 「押される感じがしますからね。」と三宅先生が言って、ディスプレイに脊椎と針が写って いるらしく、それを見ながら位置を確認しているようだった。 針は太いのだろう。 ずいぶん押された感じがしたので、もう造影剤も入ったのかと思ったら、 「これからです。」と言う。 造影剤が入った頃にはすっかり元気が無くなった。 うつ伏せに向きを変えて撮影したが、腰に麻酔がかかっているので、半分他人の身体の 様だ。 その後上向きに寝かされ、ベッドがそのままゆっくりと角度が変わって直角になり、 無理やり立たされて、立った状態の撮影に入る。 腰に力が入らずガクッと崩れそうで不安になったが、ずっと三宅先生が私の前に立って くれているので心強かった。 技師さんたちはガラスの向こうの部屋で操作している。 三宅先生は防護服を着て私の前に立って、ディスプレイを見ながら撮影の角度を調整 している。 その様にして脊髄造影が終わると、車椅子が迎えに来てくれた。 私もぐったりして、車椅子に座った。 次はCTだというので安心した。もう痛い思いや不安な思いはしなくて済む。 CT室では、前日も前々日も撮影してくれたレントゲン技師さんが待っていてくれた。 造影剤を少し広い範囲に広げるためシェイクするのだと言う。 急に面白くなってしまった。 縦に振るわけではなく、CTのベッドの上で左右にゴロンゴロンとさせられた。 私はすっかり陽気に戻った。 CTが終わって、車椅子で部屋に戻ると、ベッドの上半分が30度に起こされていた。 造影剤がこれ以上脊髄の上の方に行かないようにするためだ。 この状態で8時間安静ということになっていた。 そして、造影剤を尿として排出するために、水を1リットル以上飲むように言われた。 麻酔が残っているので、今晩はトイレは看護師さんを呼んで、車椅子で連れて行って もらうことになっていた。 トイレ行きの車椅子は暴走する。 看護師さんが「どいてどいて、ひいちゃうよ!」と言いながら、廊下にいる患者さんをどか しながら。 車椅子が初めての私は、そのスピードにスリルを感じながら「きゃはははは!」と笑い声 を上げる。 |
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6.手術のあとさき |
11月28日金曜日、今日は検査は無いとのこと。 午前中に麻酔医の小林先生が部屋に診察に来てくれた。 私が提出した入院時問診票を見ながらの問診。 問診票には3カ所もワインのことを書いておいた。 自己血採取のため入院前は毎晩(採血の日以外)赤ワインを飲んでいて、入院したと たんにワインの無い生活に耐えられるだろうか?と悪あがき。 食欲:やや不良(ワインを飲めば良) 睡眠:不眠時の工夫(ワインを飲む) 嗜好品:毎日赤ワイン1/2本 と3カ所もワインのことを書いて、無駄な抵抗をしていた。 西欧の病院では夕食にワインが付いてくるそうだが。 小林先生は私の1つ上だったか下だったか、出来る感じでカッコいいけど、ユーモアの センスもありそうな女性の先生で、ワインが好きとのこと。 問診の半分以上はワインの話だった。 私は入院前はボルドーの赤ワインを主に飲んでいたので、そんな話を・・・。 「ボルドー以外は飲まないの?」と小林先生。 「ドイツの白ワインも大好きなのがあるし、スペインの赤で気に入りのもあります。」 そんな話で麻酔医の小林先生の診察は終わった。 そう言えば、もう数年も前から、夕方になると背中や腰の痛みがひどくなり、絵を描き 続けられなくなるので、6 時解禁と決めて、毎日、大好きなドイツのフランケンワインを 飲んで、痛みを散らし、さらに描き続けるなんてことをしていたのだった。 何も検査が無いと安心していたら、たぶんこの日に動脈の血液を採取する検査があった。 三宅先生が脚の動脈に針を刺して採血すると言う。 「脚か・・・痛そ〜」と思ったけど、力を入れてしまうと絶対に痛いので、痛そうと思ったら 無抵抗になるという特技が、父が鍼灸の治療をしていたお蔭で身についていた。 脚に針を刺されるのは怖いけど、力を抜かないと余計に痛い。 でもお見事!自己血の採取もほとんど痛みが無かったし、この痛そうな採血もあまり痛みを 感じなかった。三宅先生の採血上手に拍手。 中井先生には自己血採取で、ずいぶん遊ばれたけど・・・。 これは「血液ガス分析」という検査らしい・・・。 通常の血液検査は静脈から採血するが、この検査の場合は動脈から採血し、 血液中の酸素・二酸化炭素の量を測定し、呼吸状態の評価をする術前に必要な検査。 医療ドラマで救急搬送されて来たら「血ガス採ってください!」というアレですよね? 夕方には主人と母が来ていた。 6時から中井先生による手術の説明がある。 入院してから中井先生に会うのは、この日が初めてだった。 中井先生に会えるのは嬉しいけど、さすがに私も緊張していた。 ナースステーションの一角でレントゲンを見ながらの説明。 腰椎だけの予定だったが、 「その上の胸椎の10番から12番も矯正して固定しないと身体が傾いてしまうので、 またすぐに再手術したくなっちゃうよ。」と中井先生が言う。 それは予想外のことで、ショックを隠しきれなかったが、上体が傾いていたら、見た目変 だろうから、先生が考えてくださった通りにお願いした。 手術の承諾書の病名も変わっていた。 中井先生の初めの頃の診断では「腰椎変性側彎症」だったのが、以前の「特発性側彎 症」の「変性増進」となっていた。 腰椎5個に加えて胸椎3つも固定することになる。 ネットで「脊椎手術ドットコム」を見て勉強していたので、手術の説明はよく理解できた。 あ〜、やっぱり自分の骨盤から骨を採取して、移植するのね。 手術のリスクについても納得した。 中井先生は「持てる技術の全てを尽くします。」と言ってくれた。 病室に帰る足どりはちょっと重いような、少し緊張して地に足が着かずふわふわして いるような変な感じだった。 腰椎だけだからと、1年前手術をしてもらうことを即答したが、胸椎3つもつなぐと言われ ていれば、即答は出来なかったと思う。 でも今まで1年間かけて仕事もきっちり片づけ、心の準備もして、後は中井先生に全て を任せると決めてやってきた。 診察や自己血採取で会うたびに中井先生への信頼感を深めてきた。 中井先生がその方が良いと言うのなら、それが一番良いのだ。 病室に戻ってもう一度、主人と母に「いいよね!」と確認した。 父に電話をしてから、手術の承諾書にサインをした。 土日は回診や検査は無い。 当たり前のようにゆるやかに穏やかに時間は過ぎていった。 手術前日、朝食のパンのために、私の好きなホイップバターを冷蔵庫から出して準備 していた。 届いた食事は重湯と具無しのお吸い物だった。がっかり・・・。 手術前日の食事はそうなのだ。説明を受けていたのにすっかり忘れていた。 日曜はお風呂は休みだが、翌日手術の人だけ入浴できる。 その後、看護師さんが来て、手術の準備がちょっとある。 手首には黄色い名札を付けられた。 主人が、前日メール便で自宅に届いていた古楽情報誌「アントレ」12月号を、持って 来てくれた。 この雑誌の表紙に4年間、絵画作品を連載していて、2008年12月号は連載最後の号 であった。 私はこの表紙の印刷上がりを見てから、手術に臨みたいと思っていたが、ぎりぎり間に 合った。 夕食後は下剤を飲まなければならない。 ボトルに入った300ccくらいの、成分はクエン酸マグネシウムと書いてある。 ひとしきりボトルを眺めたり、開けて匂いをかいだりしていた。 主人が「いい加減あきらめて飲みなさい。」と言う。 一口飲んで「グレープフルーツの味、まずくない。」 「味わってないで、一気に飲みなさい!」と主人。 あきらめて一気に飲んだ。 そしてナースステーションに行って、 「ごちそうさま、グレープフルーツの味でした。」と言ってボトルを返した。 母に、絵を飾っていない足元の方の壁に「何も無いと寂しいから何か貼りなさいよ。」 と言われていたので、夜になって母が帰ってしまってから、私の絵の絵はがきを壁に 貼り始めた。 こんな小さなサイズじゃ意味がないとも思ったが、10枚を1列に程よい間隔で貼って いったら、少しいい感じになった。 残りの5枚は別の壁に貼った。 何かやっていた方が落ち着く様な気がしたのだ。 主人は面会時間ギリギリまでいてくれた。 こうして手術前夜は静かに過ぎていった。 手術当日、いつものように朝を迎えた。 夜から朝への空のグラデーションの変化を楽しみ終わった後、看護師さんが来て浣腸 だ。7時過ぎに主人が来た頃には部屋に朝日が差し込んでいた。 「手術前に写真を撮ろう。」と主人が言って、トレードマークのウサギを首からかけて 朝日の中、ベッドサイドに座って写真を撮った。 当分歯を磨けないだろうからと、しっかりと歯磨きをした。 8時前には母も来てくれた。 私がいつもと変わりなく、ご機嫌だったので母は安心したようだった。 不思議なことに、怖いとか不安な気持ちは全く無かった。 中井先生に手術してもらえることが嬉しく、期待と歓びが入り交じった感じ。 ストレッチャーが準備され、足どりも軽やかにその上に横になった。 あっ、注射されてない、ラッキー!と思う人はまずいないだろう。 看護師さんの事前の説明では、部屋で緊張を和らげる注射をしてから、ストレッチャーで 手術室に運ばれることになっていた。 私は自分が手術される新館の手術室が見たかったのだ。 どんな手術室で手術されるのか。きっと新館だからカッコいいはずだ。 見なきゃ損!と思っていた。 注射されたら意識がフワッとして、見損ねちゃうかもしれない。 ラッキーなことに、注射をされずに手術室に運ばれて行った。 廊下の天井をじっくり見ることはそれまでなかったが、本館は後から工事された管が いっぱい通っていて「やっぱり、ボロね」と確認した。 本館の廊下の続きが渡り廊下になっていて新館に続く。 新館のエレベーターで6階に上がる。 手術室の手前が手術準備室になっているようで、そのドアのところで主人と母と別れ た。 「行ってきま〜〜す!」と言いながら、私は両手を振ってはしゃいでいた。 準備室でナースたちに迎えられ、すぐに手術室へ。 「おはようございます。山田さん。」と麻酔医の小林先生の声。 「あ〜先生!」と相変わらずはしゃいでいる。 「はい、今から麻酔かけていきますからね。」 この隙に手術室を見なきゃ。さすが新館できれいな部屋だった。 無影灯が見えた。曲線を生かしたデザインの美しいものだった。 寝かされているので見えなかったが、その下が手術台ね。 小林先生が「この間、『神の雫』に出てきた日本のワインを見つけたから、飲んでみたん だけど・・・」 「シャルドネですね。」と私。 「そーそー、でも3000円出して飲む程のものじゃなかった。」 私は、無影灯のデザインに感心しながら 「ああ・・・そうでしょうね・・・」 日本のワインについて持論を述べようと思ったとたん、コロッと眠らされた。 どれだけか経って、「山田さん! 山田さん! 」と起こされた。 あっ!日本のワインについての私の考えを述べなければ!と思った。 「山田さん、手術終わりましたよ!」と声がする。 あれ?ワインの話をしながらうっかり眠って、まだ40分程しか経った気がしないが・・・。 「山田さん! 手術が終わりましたよ! 」とさらに看護師さんの声がする。 あっ!麻酔とはこういうものか!時間を感じない。時間をすっかり切り取られた感じ。 実際には10時間経っていて、手術が終わったんだ!と気がついた。 ベッドの足元の方で「麻痺はありませんね。」という中井先生の穏やかな声がした。 先生はもう白衣に着替えていて、いつもの笑顔だった。 本当に手術が終わったんだ・・・。 ちょっとふざけて、手術直後の患者らしくない元気な声でお礼を言おう! 「先生、ありがとうございました・・・」出てきたのは小さなかすれた声。 その後、主人と母に会って安心し、また眠りに落ちていった。 このページのTOPへ戻る |
7.サント=コロンブ |
息苦しさで目が覚めた。そうだ手術が終わって回復室にいるのだった。 酸素マスクをしているのに息苦しいので、ナースコールして尋ねた。 「苦しいんですけど、ちゃんと酸素出てますか?」 「ちゃんと出てますよ。」という返事だった。 頭床灯はつけたままにしてもらっていた。 黄色い灯に照らされて、私のベッドだけが暗い宇宙に浮かんでいる。 そんな感じがした。孤独感が眠りに吸い込まれていった。 ガチャガチャという器具の音で目が覚めた。 細く開いたカーテンのすき間から、まだ暗い空が見える。6時過ぎ、起床時間なんだ。 看護師さんが来て、私の酸素マスクが外され、少し楽になった気がした。 助手さんが来て、蒸しタオルで顔を拭いてくれた。 淡い朝焼けから青い空へと変化していった。 私一人しかいないように感じられた回復室には何人もの人がいて、朝食を食べられる 人には朝食が配られた。 当然私は食べられない。食事がうらやましいともわず、細長い空を眺めていた。 水を飲めないので口が渇いて苦しかった。 痛みも想像をはるかに超えるものだった。 中井先生がカーテンの横からのぞいて、 「どぉ〜?」 そんな中でも中井先生の顔を見るのは嬉しかった。ちょっと冗談っぽく、 「元気ありませ〜ん。」と答えた。 かすれた高い声だった。 私の顔だけ見て、中井先生はすぐに行ってしまった。 看護師さんに 「今さっき、中井先生にお礼を言おうと思ったんだけど、言いそこねちゃったので伝えて ください。」と言ったら、 「昨日手術が終わった時、ちゃんとお礼言ってましたよ。また会ったら伝えておきますけ ど。」と言われた。 術後、上向きに寝かされた私の身体にはたくさんの管やコードが付いていた。 胸には心電図の電極が付けられ、4本のコードがつながっていて常に測定されている。 右腕には点滴と指には血中酸素の測定器、左腕には手術中に使っていた点滴の針が 予備のため入ったまま、それに自動血圧計。 尿管、両脚に血栓防止のためのハドマー。 抜く時になって初めて知ったのだが、術部のお腹と背中からの血を抜くためのドレーン。 このような状態だった。 回診の先生と師長さんと副師長さんが来て、お腹の傷を診た後、「身体を横にします から丸太のようにゴロンとなってください。」と言われて、身体の下に敷いてあるバス タオルの左の辺を、二人がかりで持ち上げる勢いでゴロンと転がされる。 「痛たたたた!!!」想像を絶する痛み。 「はい、いいですね。」と先生。師長さんに 「背中の傷きれいですよ。」と言われた。 「丸太のようにゴロンとして元に戻ってください。」 「痛たたたた!!!」元通り上向きになった。 要するに身体をねじらないようにということなのだ。 「他人の3倍も切ってるんだから、痛くて当然!生きてる証拠!」と師長さんが言った。 なるほど!と納得。師長さんの目は微笑んでいた。 その後、痛みについてはどこかあきらめた感があった。 身体を自分で動かすことが全く出来なかったので、ただ寝かされた形で寝つづけること しか、私にはできなかった。 手の指と手首、足の指と足首が少しだけしか動かなかった。 この様になるとは術前は全く予想していなかった。 胴体は動かないとして、手足(腕と脚)は当然自由に動くと思っていた。 不安が頭をもたげてくる。本当に元の様に、ちゃんと動くようになるのだろうか? それには、はるかにどれだけの時間がかかるのだろうか? 1カ月後には手足は動くようになっているのか? 退院予定の2カ月後には本当に歩けるのか? 一生のうちの1カ月、2カ月が永遠の時のように感じられた。 ああそうだ、演奏しておいて良かった。 これでヴィオラ・ダ・ガンバが弾けなくなってしまったら、2カ月前の個展での師匠との演 奏が最後だったことになる。 私は決して音楽は得意ではなかったが、ヴィオラ・ダ・ガンバは私にとって特別な楽器 だった。 ほとんど楽器の経験もなく、楽譜を読むのも苦手なまま、9年前に千成千徳先生を訪ね た。 「ご相談したい。」ということだったが、その日が最初のレッスンとなった。 「指がしっかりしているから大丈夫ですよ。」と先生は言ったが、そういう問題かな〜? と 思った。 その後9年間、音楽が苦手な私は、先生にご機嫌を取ってもらいながら、自分なりには 努力して続けてきた。 精神的に辛い時、どれだけガンバに慰められてきただろう。 何度、涙を流しながらガンバを弾いたか知れない。 私の悩みの根底には、いつもこの病気の悪化の不安があった。 隔年のギャラリー・ベルハウスでの個展では、先生と3回演奏した。 手術を2カ月後に控えた、2008年10月は、もうあまり長い時間、起きていることが出来 なくなっていた中で練習して、本番に臨んだ。 母には「そんなに無理をしなくても、今回は演奏しなくてもいいんじゃない?」と言われた が、手術の前に絶対に演奏したかった。 私が最も敬愛するサント=コロンブ(17世紀後半,フランス)の2台のヴィオルのための 合奏曲Le Tenderre(優しさ)とTombeaw(亡き人を偲ぶ曲) を千成先生と。 未熟な私でも、弾いていて作曲者の精神性の深さを感じることができた。 サント=コロンブの音楽には、自分の長年の苦しみと重なる何かを感じていた。 注)ヴィオラ・ダ・ガンバはルネサンス時代からバロック時代にかけて、王侯貴族の間で最も愛された楽器で、 大中小の楽器があり、ガンバ属だけの合奏も楽しまれた。 バロック時代はバス・ガンバが主となり、ソロ楽器としても活躍した。 ヴィオラ・ダ・ガンバはイタリア語で、脚(ガンバ)に挟んで演奏する弓弦楽器という意味。 フランス語ではヴィオールと言い、イギリスではヴァイオルと呼ばれた。 このページのTOPへ戻る |
8.おなら競争 |
その後看護師さんが二人で身体を拭いてくれた。 蒸しタオルで全身を拭いてくれるのだが、太ももに蒸しタオルを当てられたとたん無意識 に「気持ちいい〜」と言っていた。 痛みと不安と呼吸の苦しさと口の乾きに苦しみながらも、どこか別の場所で、ちゃんと気 持ちよさを感じ、幸せを感じた一瞬があった。 次には激痛が待っていた。 背中を拭くために例によってバスタオルでゴロンと転がされるのだ。 「痛たたたた!!!」戻るときも 「痛たたたた!!!」これも文句を言っているつもりはない。 つい口から漏れてしまうのだが、何も言わずに痛みをじっくり味わう気にはなれず、声を 出している方が多少は気が紛れるというものだ。 それまで私の身体には、手術に運ばれていく時着ていたピンクの浴衣が1枚かけられ ている状態だった。 看護師さんたちが私に下着とパジャマを着せてくれるのだが、痛くてパジャマの袖がな かなか通らない。 やっとの思いで着せてもらって元通り寝かされたが、腕がパジャマに引っ張られて全然 動かない。 フリルの付いた地味でオシャレな細身の木綿の平織のパジャマだった。 病院からの指示では前あきのパジャマということだったので問題ないと思ったが、大問 題!だぶだぶのストレッチ素材のパジャマじゃないと、ダメだ。 主人と母にどこか近くのデパートでそういうパジャマを買ってきてとお願いしたが、なんと 病院の売店で売っていた。 狭い売店なのに必要なものはちゃんと置いてあるので感心した。 「あなたが好きそうな模様のがあったわよ。」と母。 ピンクに花模様と水色に花模様のを買ってきてくれた。 看護師さんには申し訳なかったが、もう1度着替えさせてもらった。また 「痛たたたた!!!」「痛たたたた!!!」を繰り返す。 あれ?合唱が聞こえる。看護師さんの一人が 「痛たたたた!!!か?」と一緒に言ってくれていた。 膝を少し高くしていた方が楽なので膝の下にクッションを入れてくれていた。 二つのクッションのどっちがいいかな?と看護師さんが二人で相談していた。 私はすかさず 「キティー!」と言った。 一人の看護師さんがクスクス笑いながら、 「はい、キティーね。」と言って、私が指示したキティーのクッションを膝の下に入れてくれ た。 これは絶対誤解である。 それまでしていたクッションの高さがちょうど良かったので、外すときに確か看護師さんが キティーと言っていたので、それはキティーの模様なのだと認識した。 私は寝かされたまま全く動けないし、眼鏡もコンタクトレンズもしていないので模様など よく見えなかった。 緑色の中に白とピンクの模様が目に入っていただけだった。 もう一つのは白とブルーの縞模様で細長いものだった。 着替えるまでしていたのがちょうど良かったのでお願いしたのだが、絶対にキティーが 大好きなのだと誤解された。 これを「キティー事件」と呼んでいる。 そのキティーのクッションは退院までずっと私のそばにいた。 両方の脚にハドマーという血栓防止のための機械が付いていた。 手術で腹部の左側を開いて、腰椎の前から金属を入れる時に、交感神経と大動脈を左 の方にずらして処置するために、術後血栓が出来やすくなる。 それを防止するために手術中も、両脚を圧迫するきついタイツを履いていて、その後も そのタイツの上から1分に1回くらいのペースでこの機械で締めつけられる。 血圧計で腕を締めつけられるのを想像していただくとわかりやすい。 この機械が不愉快かと言われればそうでもなかった。 術後1〜2日目は、永遠と思われる時を確実に刻んでいることを、この機械が教えてくれ ているように思えた。 三宅先生が来て、 「脚動きますか?」と言う。 「動きません、全然。」特に左脚は曲げようと力を入れると、脚の付け根に激痛が走り、 絶対に曲げるなどということは出来なかった。 ところが、三宅先生はあっさりと私の左膝を直角に曲げた。 人に曲げてもらえば曲がるんだ。 「曲がることがわかればいいです。血栓防止のために時々脚を曲げるように努力してみ て。」と言われた。 痛くて痛くてとても無理だった。 相変わらず水が飲めないので、話すと口が渇く。 呼吸が浅いので話そうとしても単語1つしか言えない。 先生や看護師さんには言うべきことは言わなければならないが、主人や母が話しかける ことにいちいち答えていられない。 「指で合図するから」ということにした。 母が帰りがけに私の手を撫でてくれた。 撫でられると気持ちがいいはずだが、 「やめて、体力消耗するから・・・」と私はとっさに言っていた。 それほど体力を消耗していたのだ。 同室の少し年配の男性が話していた。 私は昨日夜の10時40分に回復室に運ばれてきたのだそうだ。 とっくに消灯時間が過ぎているので、その騒ぎに起こされて、時計を見たのだろう。 朝8時半に個室を出て、麻酔から数えると、私の手術は約14時間かかったことになる。 10時間の予定が14時間もかかったので、主人も母もとても心配していたらしい。 術後、主人と母は中井先生に説明を聞いて、私に一目会って終電で帰ったということ だった。 手術翌日は面会時間より早く来ても良いと言うことで、主人と母が来てくれていたが、 面会時間が終わって二人は帰って行った。 日中は痛くても何かと気が紛れているものだ。 消灯を過ぎると自分の痛みと不安に真正面から向き合うことになる。 それ以前に呼吸が苦しかった。意識して一生懸命息をしていた。 脱脂綿を水で湿らせたものをもらって時々口を湿らせていたが、口から息をはくとすぐに 乾いて苦しくなってしまう。 でも鼻だけだとしっかり呼吸できていない気がした。 ナースコールをして、 「呼吸が苦しいんですが大丈夫ですか?」と尋ねた。 看護師さんはモニターを見て、 「大丈夫よ、血中酸素97%だから。」と答えた。 指に付けている邪魔っけなクリップはこの血中酸素濃度を測るものなのだ。 大丈夫ということだったが、眠ってしまうと息をするのを忘れてしまいそうで恐ろしかった。 痛み止めは点滴と注射と座薬、好きなのをリクエストできた。 注射が好きなはずはないけれど、程よく均等に違うものをリクエストした。 夕方から私の体内で大変革が起こっていた。 お腹がゴロゴロいう今まで聞いたこともないほど大きな音。 消灯後は回復室に鳴り響く様な大きな音に感じられた。 自分で動かすことの出来ない重い身体をベッドにまかせていたが、体内では回復しよう とする力強い動きが始まっていた。 時々は眠りに落ちた。 ふと目が覚めると、自分がどういう形で寝ているのかわからなくなっている。 両腕がだらりとベッドの横に垂れ下がり、しかも手首が逆向きにくっついているように感 じる。 あれ〜、中井先生何か間違って神経逆に付けちゃったのかな〜?と不安になる。 怖ごわ右の指を動かしてみるとちゃんと付いているし、ベッドの上に乗っている。 肘も微妙に動かしてみると、ベッドの上にあることがわかる。 左も同じように確認すると手首もちゃんとなっていて、ベッドの上に腕が乗っていることが わかる。あ〜助かった! そういえば昼間こんなこともあった。 あれ〜中井先生、私の腰椎が後彎になっているので前彎になるように手術してくれた はずだけど、やりすぎたんじゃない?と思った。 腰の部分がすごく反り返っているように感じられたのだ。 一人ですごーく不安になったが、寝かされ方だった。 ちょっと右臀部が上に引っ張られるような形でたまたま寝かされていたので、例のゴロン と言うやつをやらされて、また戻ったら自然な形になっていたのでホッとしたのだった。 相変わらず私のお腹は大きな音をたてていた。 今晩も私の所は頭床灯を付けたままにしてもらっていた。 お隣がトイレに行きたいとナースコールした。 同じ日に手術を受けた男性で、たぶん術前よく廊下で挨拶を交わしたTさんだ。 頸椎の手術をしたらしく、起きる時は首を保護するためのカラーを付けなければならない ので、手間取っている様子だった。 それにしても首の人はもう起きられるんだ。とちょっと羨ましかった。 私は当分寝たきりなのに・・・。 術後1日目の夜はとても辛くて、私と彼と交互にナースコールするようだった。 彼も相当辛い様だった。ある時 「ガスが出たんですけど」と彼が言ったが、看護師さんは聴診器を当てて 「まだお腹あまり動いてないようですね。」と言っていた。 そっか!私もガスが出るためにこんなにお腹がゴロゴロ言っているのだ! 彼のことを、この苦しい一夜を共に戦う同志であり、ライバルに思えた。 なんだか勇気が湧いてきた。 後で気がついたのだが、他の人と違って私の場合、手術で腹部左を切って腰椎にアプ ローチした際に、内臓を腹膜ごと右に寄せられていたため、腸が元に戻るのに人一倍大 きな音がしたのだ。 呼吸の苦しさも痛みも続いていたが、ある時大きなオナラが出た。 早速ナースコールした。聴診器をお腹に当てて 「腸がよく動いてますね。いいですよ。」と言われた。 大きな手術を受けて、数値上良い状態だったと思うが、自分的には瀕死の状態に思わ れた私が、なんと、おなら競争に勝ったのだ! 私って意外に健康なのかな?あまり健康というものには縁がなかったように思ったが、 私は脊椎以外は元来健康だったのだ! それからしばらくして、彼も大きなオナラが出たらしかった。 どんなに痛くても、どんなに辛くても、先生や看護師さんに何かしてもらったら、必ずにっ こりしてお礼を言おうと決めていた。 さすがに術後数日はにっこりは無理だったが、ちゃんと毎回「ありがとう」と言うことができ た。 Tさんもちゃんと辛い中でも毎回「ありがとう」と言っていた。 へ〜私より若いのにいい人だな〜。 このページのTOPへ戻る |
9.個室への帰還 |
術後2日目の朝、水が解禁になった。 準備していたストロー付きのコップに看護師さんが水を入れてきてくれた。 最初はむせたりするのかと思ったが、大丈夫だった。 これでずいぶん楽になった。 助手さんが蒸しタオルで顔を拭いてくれた。 涙の跡が残っていたのでお願いしてよく拭いてもらった。 助手さんが帰りにカーテンの外で、すれ違いながら、 「山田さん泣いてましたよ。」と報告した相手は中井先生だった。 先生がちょろっと覗いて「どぉ〜?」と言う。 中井先生の顔を見たら少し元気が出て、 「あっ!先生!ありがとうございました。」昨日言えなかったお礼を言った。 なんとTさんは朝から食事だという。しかも起きて食べるのだ。 そうとう苦労している様子だった。 回診が回ってきた。例のゴロンが怖かったが、もっと恐ろしいことがあった。 昨日と同じく、まずお腹の傷を診る。 次になんと術部に差し込んである管を抜くのだという。 「ちょっと気持ち悪いけど我慢してね。」と回診の先生が言う。 そんな管が入っていることさえ、今の今まで知らなかった。 「ええっ!!!」他の患者さんもいる手前、悲鳴など上げられなかったので、管を抜かれ る気持ち悪さをしっかりと味わった。 思ったより深く入っていたな〜。 ふ〜これでひと安心と思ったら、例のゴロンである。 背中の管も抜の!!!?ところが中止になった。 まだ出血があるので午後にしよう、ということになったらしい。 あ〜助かった。 三宅先生が来て、 「自己血が1本残ったので、点滴で戻します。」と言う。 そうしたらこのくた〜っとした感じが少しは元気になるかも・・・と思った。 自分の血が点滴で入ってくるのもなんだか変な気分である。 容器の方は見ないことにした。 ところが今度は看護師さんが、 「昼食から出ますからね。」と言う。とんでもない。 ただ自分の血を点滴されてるだけで変な気分なのに、この状態で初めての食事はあん まりだ。 「この点滴が終わるまで食べられません。」と言った。 横向きに寝たまま食べるのだが、とてもじゃない痛くて食べられるはずがない。 お医者さんにも看護師さんにもわがままは言わないと決めていたが、これはとても無理 そうに思えた。 今回だけは痛み止めをしてもらって、ちょうど点滴が終わるころに、看護師さんが昼食を 持ってきてくれた。 これ以上はわがままを言えないので、あきらめて食べ始めた。 ちゃんと喉を通るのか?と思ったら、何の問題もなかった。 お粥をスプーンで口に運び、味噌汁の具の無いところをストローで吸う。 このストローは透明のホースを切ったようなものだ。 術前はこんなもので吸って美味しいのだろうか?と思ったが、初めての食事はとても嬉 しかった。 目の前の右腕には点滴の管に自分の血が一筋残っているのを眺めながらだったが・・・。 入院生活をすると少々のことには動じなくなるものだ。 食事が終わってから、看護師さんに、 「自分の血を見ながら食事するのはとても無理だと思ったので・・・」と言った。 「えっ?自分の血なのに?」と不思議そうだった。 そうか!医療関係者はそういう感覚なんだ! Tさんの悪友が廊下に来て騒いでいる。 「え!俺の時、何日か寝たきりだったのに、もう2日目にトイレ行ってるの! がはははは・・・」 エ?見舞いの客?それとも入院患者?回復室の前で騒ぐなよ! 午後にまた先生方が来て今度は背中のドレーンを抜くという。 隣のTさんはちょうどトイレに行っている。助かった。 また「痛たたた!!!」と言って横にされ、背中の管をズルズルと抜かれた。 必死に耐えたが、このカーテンの向こうにTさんがいなかったことが、せめてもの救いに 感じられた。 前後するが、午後1時過ぎに、新しい術後の患者さんが回復室に運ばれてきた。 中井先生の手術だったらしい。 月曜の次は水曜が中井先生の手術日なんだ。 それにしても少し年配の女性の患者さんは、元気そうな艶のある声でお礼を言っていた。 私と全然違う!14時間と4時間の違いはこういうものかと思った。 その後、また中井先生が私の所をちょろっと覗いた。 1日に2回先生の顔を見られるのはラッキー!と思った。 術前は、回復室にいないで早く自分の個室に帰りたいと思っていたが、術後は心配で、 当分はナースステーションの隣の、この回復室にいたいと思うようになっていた。 夕方には私を個室に返すことになっていたようだ。 私は「ここにいたい!」と言っていた。三宅先生に、 「自分でコーディネートした部屋に帰ると元気が出ますよ!」となだめられ、やむなく帰る ことを承諾した。 夕方にベッドごと部屋に運ばれて行った。 日本光電のディスプレイも後からついてきて、部屋でつなぎ直した。 運んできてくれた看護師さんたちは、私の部屋をしげしげと眺めていたという。 日本光電は、1月にお見舞いに来てくれる約束をしている友人が、勤めている会社の 関連会社だった。 こういうところでお世話になるんだな〜。 個室に戻っても数日間、日本光電のお世話になった。 確かに部屋に帰って来て、少し落ち着いた感じがした。 もう飲み物はいつでも飲めるので、ミネラルウォーターとほうじ茶を、それぞれストロー付 きコップに入れて、トレー状の容器に乗せ、枕のそばに置いてもらった。 いっぱいに入れると、握力が弱っているため、こぼしてしまいそうだったので、半分くらい にしてもらった。 主人と母が帰ると、また呼吸が苦しくなった。 消灯時間に看護師さんに、 「今晩も呼吸法を研究してみます。」と冗談ぽく言った。 相変わらず呼吸は苦しく、変な夢を見たりしたが、目覚めてはほうじ茶か水を飲むことが 出来たので、前夜よりはるかに楽だった。 このページのTOPへ戻る |
10.「うどん事件」と「焼きそば事件」 |
10日間くらいは寝たきりの生活になる。 手術前は、術後は動いてしまうといけないから、人型にくり抜いたベッドにでも寝かされ るのかと思っていた。 とんでもない、身体を自分で動かすなど痛くてとてもできない。 ふ〜ん、だから人型のベッドは必要ないのね・・・。 術後のマニュアルに、寝たきりの状態での食事の仕方が載っていて、右利きの人は 右が上で、右手で食べると書いてあったので、そうしていたが、私は左のお腹も切って いるので、左が下になるととても痛かった。 そのマニュアルは背中だけを切る手術の人を例にとっていたようだ。 「右を下にして左手で食べたら?」と術後3日目の担当の看護師さんが言ってくれたの で、それ以来食事が楽になった。 食事の時間になると看護師さんが二人来て、身体をねじらないために、身体の下のバス タオルを二人で同時に平行に引っ張って、私の身体をベッドの端に寄せて、そのままタオ ルを引き上げてコロッと横に向け、背中とベッドの手すりの間にクッションをはさむ。 ベッドの空いた側にビニールシートを敷いて、食事のトレーを乗せる。 これで準備完了。 首は全く動かせないので、向こう側の料理が何なのかのぞくこともできない。 フォークかスプーンで食べ物を口まで運ぶのもなかなか難しい。 寝ている状態でおかゆを大きなスプーンで食べるのは困難だったので、困っていたら看 護師さんが、 「おにぎりにしてもらいましょうか?」と言ってくれた。 そういうこと出来るんだ!次の食事からおにぎりになった。 ご飯100グラムのおにぎりはとても小さかった。 身長はたぶん150センチ以上になったんだけど・・・と思ったけど、要求しておいて残す のも悪いので、そのままにした。 術後3日目で心電図は外された。 「食事、完食したら点滴も外れますよ。」と言われて、その日の夕食は主人に食べさせて もらって完食した。翌日点滴が終わった。 ある日、「うどん事件」が起こった。 昼食は付け麺のうどんだった。 左手なのでお箸は使えないから、パスタのようにフォークでうどんを巻く。 次にそれを汁に付け汁が垂れない様に、またうどんが盛ってあるお皿の上で汁を切る。 それから口に運ぶ。と計画したものの、とにかくうどんはフォークでうまく巻けない。 しかもうどんがくっついていて本当に巻き取れない。 四苦八苦してうどんを数本食べたが、そこで力尽きた。 摂取エネルギーから消費エネルギーを引くとマイナスになった。 これを「うどん事件」と呼んでいる。 その日担当だった看護師さんが気の毒がって、 「麺類禁にしましょうか?」と言ってくれたので、そのようにしてもらった。 そうしたら数日後、今度は「焼きそば事件」が起こった。 その様な経緯を知らない看護師さんが、 「あれ〜焼きそばなのに麺がない〜」と言いながら昼食を運んできてくれた。 やられた! 焼きそばなら余裕で食べられるのに、麺類禁にしたせいで、焼きそばの具の部分だけが お皿に乗って、別におにぎりが付いてきた。 「麺類禁解除して〜!」と言っている間に寝たきりの10日間は終わった。 話は戻るが、手術の翌日、腕はほとんど動かなかったのに、2日目の昼から自力で食 事をして、3日目にはちゃんと歯まで磨ける様になっていた。 横になったままストロー付きのコップでうがいをして、ガーグルベースに吐く。 まだ体力がなく、横向きに寝たままうがいをすると、口内の上になった側をすすぐことが 出来なかった。 そこで下側のほっぺたを押さえると上側がすすげることを発見し、うがいが上手になった。 そんな発見を無邪気にその日担当の看護師さんや助手さんに話した。 数日後には体力が付いてきて、横向きに寝たまま普通にうがいをしても、口の中全部が 洗浄できるようになった。 また、腕が真上(頭の方)に上がる様なったら、 「こんなこと出来るようになりました!」と、その日の回診担当の先生、師長さん、副師長 さんにやって見せて、その日担当の看護師さん、助手さんにもやって見せた。 出来なかったことが1つ1つ出来る様になることが何よりも嬉しく、看護師さん達はいっ しょに喜んでくれた。 「お腹痛いから笑わせないで〜!」主人や母と冗談を言って、笑わないようにするのに とても苦労した。 お腹を切った患者を笑わせてはいけない。 お腹が動くと傷が痛む。咳はもちろん絶対ダメ。 時々むせたくなっても、喉をさすったり水で喉を湿らせたりして、むせないようにした。 笑えるようになったのは1月に入ってから、咳払いができるようになったのは1月中旬 だった。 術後 4日目、この日はCTに呼ばれ、ストレッチャーで運ばれて行った。 いつもの技師さんが「手術前のCTの解析が大変だった。」と言っていた。 私の脊椎はそれほどに曲がり、ねじれていたのだ。 退院後初めての診察の時、術前のレントゲンを見せてもらったが、複雑に曲がりすぎて いるため、ひどいところは白くぼやけていて判別できなかった。 帰りには「今度は歩いて来てね。」と言われた。 ストレッチャーの上で両手を振りながら「は〜い」と返事をした。 夕方、中井先生が部屋に来てくれた。 「せんせー!こんなに元気になりました!」と手足をじたばたして見せた。 「ずい分まいってたみたいだったから・・・」と先生。 「どうなるかと思いました・・・。」と私。 「本当はもうちょっとやりたかったんだけど、危険も伴うし・・・」 「これ以上はとても耐えられませ〜ん!」と私。 術後 6日目の日曜日、母といっしょに父も来てくれた。 その後、九段坂病院への紹介状を書いてくれたヒロ君先生の叔母、デザインスタジオの 先輩だった岡さんが、お見舞いに来てくれた。 岡さんは甲府に住んでいて、日曜に東京に行くから、会えそうだったら行きたいとメール をくれていた。 手術直後はとても来てもらえる状態ではなかったが、術後4日目の夕方には相当元気 になっていたので、 「よろしかったら寄ってください。」と主人にメールの代筆をしてもらったのだった。 長時間の手術と、その直後の状態も主人がメールで報告していたので、岡さんは私の 元気そうな様子に驚き、またとても喜んでくれた。 その頃には、痛みも楽になっていた。 回診や食事でゴロンとやられても「痛たたたた!!!」と言わなくなっていた。 また、呼吸も楽になっていた。 それまでは必ず夜になると呼吸が苦しく、あまり眠ることが出来なかった。 呼吸器系の問題ではなく、腹式呼吸をするとお腹の傷が痛いため、お腹を動かさない ように浅く呼吸をしていたか、胸で呼吸をしていた。 日中はそれでも大丈夫だったが、眠るときは自然と腹式呼吸になるらしい。 スースーと気持ちよく寝息をたてているというのは腹式呼吸なのだと、術後毎晩の研究 の結果わかった。 一難去ってまた一難。難題が待っていた。 寝たきりの10日間の後半の苦しみは便秘だった。 普段から下剤を飲むと腹痛で苦しむので、絶対に下剤は飲みたくなかった。 座薬もしてもらったが、やはり上からくださないと無理だと、ある時あきらめた。 「カマはお腹痛くならないよ。」と看護師さんに言われて飲んだら、全然腹痛にならず、 便秘が治った。 通称カマ=酸化マグネシウム、これはスグレモノである。 ギブスを巻いて起きられる様になり、自分でトイレに行ける様になっても、カマを愛用した。 おかげで退院まで快便であった。 「快眠」「快食」「快便」、その前に「快息」がナント大切なことか! 手術直後はすべてが無かったわけだから、これが揃っていれば、幸せと言わずにはいら れない。 このページのTOPへ戻る |
11.初めての立っち |
ギブスを巻けば起きられるようになる。 そのギブスを巻く日が近づいてきた。 ギブスを巻くには、最低15分間立っていなければならない。 10日以上寝たきりだと、急に立つと血圧が低くなってしまうらしい。 そのために3日間のリハビリをやる。 リハビリの平山先生が来て、ストレッチャーで新館5階のリハビリ室に運ばれて行った。 まっすぐ寝た状態からまっすぐ立った状態まで、傾斜を変えられるチルト用ベッドを使う。 腰のところをベルトでベッドに固定され、手はつかまるところがある。 まずは30度まで起こしてみる。ずいぶん起こされた感じだが、それでも30度。 その状態で10分間、血圧を測りながら様子をみる。 大丈夫そうなので次は45度。 「危なくなったらグリップのボタンをポチットナと言いながら押すんだ。」と平山先生は言う。 「山田さんにそんな事言ってもダメですよ〜」と看護師さん。 絵と音楽を職業と趣味にしている様な人はそんなことは知るはずないとういう意味らしい。 ガンダムなら知ってるけど・・・。 血圧は大丈夫なようで、次に60度になった。 脱出の準備をしなきゃいけない気分がしてきた。 普通ボタンを押すと脱出できるはずだが、ポチットナは違う。 「押すと爆発するんだ。」と平山先生が言う。 何だか知ってる気がして脳の中を検索していた。 さらに80度になった。腰にずっしりと重力がかかった。 手術後の私の脊椎に初めて縦に重力がかかった。 第4腰椎、第5腰椎あたりに痛みと同時に熱を感じた。 痛みはさほどでもなく、腰の周りの筋肉が1週間ぶりに働いて、熱を発しているようだっ た。全身が熱くなった。 10分そのままの角度で、その日のリハビリが終わった。 初日に80度までいく人は少ないらしい。 ストレッチャーで運ばれて部屋に帰る間も「ポチットナと言ってボタンを押すと爆発する」 という事について考えていた。 謎を解く鍵は「爆発だ」私の脳にぼろぼろのドロンジョ様の映像が浮かんだ。 部屋に帰って、 「山田さんはポチットナなんて知りませんよね?」と看護師さんに言われたが、 「あのアニメは結構センス良かったから・・・思い出したけど、爆発するとこ何度か見たこ とある。」と私は答えた。 起きられるようになって、毎日自力で旧館のリハビリ室に通うようになったある日、タブ ロイド版の新聞サンケイエクスプレスに載っていた。 カッコいいドロンジョ様とぼろぼろのボヤッキーとトンズラーの写真と記事。 なんとそのアニメが実写化される。映画を撮影中だという。 平山先生にその記事を持って行ったら、先生も驚いていた。 退院後に上映になった。 地下鉄のあちこちの駅に、大きな看板やポスターが貼ってあったそうだ。 相当話題になったので、今ならポチットナを知っててもおかしくないかも・・・。 手術直後から血栓防止のため、ずっと両脚に付けられていたハドマーは、1日3回1時 間ずつになった。 その代わり、自分で足首の運動と、脚の筋力強化のための脚の後ろを伸ばす運動を するようになった。 その後、起きて歩けるようになったら、ハドマーは完全に終了した。 術後 9日目。 毎朝の回診ではお腹の傷と背中の傷を見てくれていた。 半透明で傷が見えるシートが貼られていたが、今日はいきなりお腹の傷のシートを剥が し始めた。 と思ったらいきなり抜糸が始まった。 痛い!痛い!痛い!痛い!は〜・・・お腹の傷の抜糸が終わった。 例によってバスタオルのままゴロンと転がされ、お腹の傷よりはるかに長い背中の傷の 抜糸に移る。 長さはお腹の2倍はあるので、どんなに痛いかと思ったら、背中はあまり痛くなかった。 最後に左の骨盤から骨を採取した傷の抜糸。 これはまた痛かった。は〜〜〜終わった〜〜〜っ。 入院生活は新しい事が突然起こるものなのです。患者にとってみれば。 そう、この日はボランティアの人に寝たまま洗髪してもらった。 首にあたる部分が半円形にえぐられた四角い容器をベッドの頭の方に置いて、お湯を 入れた容器にシャワーの付いたもので流してくれた。 手術以来初めての洗髪はとても気持ちが良かった。 術後10日目。 前日抜糸、翌日ギブスを巻く予定で、この日は全身シャワーをしてもらった。 ストレッチャーで新館5階の特浴(たぶん特別浴室)に運ばれて行った。 ストレッチャーから寝たままできるシャワー台に移され、 2つのシャワーで看護師さんと 助手さんが身体と髪を洗ってくれた。 まるで解凍する様な感覚を覚えた。 手術以来自分で動かす事も出来ない重い身体が、自分である事を再認識するかのよう に、全身の細胞一つ一つが目覚めるかのような感覚が脳に伝わった。 「気持ちいい!気持ちいい!」と子供のようにはしゃいだ。 あまりにも気持ちが良く、あまりにも幸せなひとときだった。 術後11日目、ギブスを巻く日である。 またストレッチャーで運ばれて行った。 三宅先生が幅20センチくらいの筒状の編み物を切り取り、腕を出すところを作った。 「あっそれノースリーブのタートルネック!」と私が言った。 パジャマとシャツを脱いで、それを着せられた。 先生と看護師さんに手助けされて、術後初めて立ち上がった。 腰椎に負担を感じたが、フラフラしなかった。 そのノースリーブのタートルネックの上からギブスを巻くのだ。 チルトのリハビリの時から気になっていたが、右脚がちょっと短くて、両足をまっすぐに 立つと身体が右に傾いてしまう。 「身体がまっすぐだと自分で感じる様に立って。」と言われ、左膝をゆるめて立った。 天井からの点滴用のポールで顎を吊れる様になっていて、両手つかまるところも作って くれた。 今のギブスは石膏ではない。 樹脂を織った様な包帯状のものを、封を切って水につけ、それを巻いていく。 三宅先生が巻いている間に、看護師さんが次の封を切って水につけておく。 水につけて身体に巻くと、熱を発して固まっていく。 便利で、しかも石膏よりはるかに軽い。 しかし石膏みたいな匂いがするので、原材料が知りたかったが、それが入っていた箱に も何も書いてなかった。 企業秘密かな? 樹脂系らしいが、残念ながら原料とどういう化学反応で固まるのか不明のまま。 石膏は絵の下地に使うし、油絵は化学反応を利用して描くので、そういった事が知りた くなってしまう性分なんだけど・・・残念。 本当に見る見るうちに固まっていく。 三宅先生が中井流と言っていた。ギブスの巻き方は先生によって違う様だ。 中井先生の手術の患者にはギブスも中井流で巻くらしい。 上も下も余計に巻いておいて、後から電動工具で切る。 身体を切断されるかと思うほど、その電動工具が恐ろしい。 実際には数ミリしか切れない様になっている様だが、音がまたすごく恐ろしい。 その様にして、胸の上から股関節の上までのギブスが完成した。 術後こんなに長時間起きていた事がなかったので、疲れてしまっていた。 部屋に帰って休めるかと思ったら、車椅子が迎えに来て、そのままレントゲン室へ。 撮影が終わって、車椅子で3階病棟に帰って来た。 ナースステーションの中から歓声が上がった。 その時期最大の手術で、術後10日以上寝たきりだった私が、ストレッチャーに寝たまま 病棟を出て行って、車椅子に座って帰って来たのだ。 看護師さんたちにすべての事をしてもらって、ここまで回復した。 そして彼女たちが喜んでくれている。 こんな感動は今まで経験がない。 「他人によって生かされている。」そのことを感動とともに思い知った。 部屋に帰ると、主人と母が待っていた。 「初めての立っちだ!すごいすごい!」とひとしきり騒いで、写真を撮ったり、写メールを 送ったり。 その後、13日ぶりにベッドサイドに座って夕食を食べた。 このページのTOPへ戻る |
12.私の部屋 |
金曜にギブスを巻いて、土日はリハビリもないので、不器用な歩き方で必要な時は部 屋の中を移動した。 夕食の時はいつも主人か母がいてくれるので、冷蔵庫に入れてある京漬け物を出して もらっていたが、昼食でも漬け物が食べたくなって、歩いて冷蔵庫のところまで行き、 しゃがんで取り出したまでは良かったが、立ち上がることができなかった。 それほど筋力が落ちているとは、認識していなかった。 しまった! ナースコールまでは届かないし、困った! 満身の力を込めて、やっと立ち上がることが出来た。助かった! これはまだ、やってはいけないことなのだと反省した。 便意があるとナースコールして、車椅子で身障者用トイレに連れて行ってもらう。 やはり地球の重力があって初めて、スムーズなお通じがあるのだと発見した。 月曜から歩行のためのリハビリが始まった。 筋力は落ちていたが、術前も歩行に問題はなかったので、ほどほどには歩くことができ た。 この日から歩行器を使っての歩行が許され、歩行器で自力でトイレに行けるようになっ た。 そしてやっと尿管も外れた。 部屋のすぐ向かいにもトイレはあったが、30メートル近く歩いて、ナースステーションの 向こう側の身障者用トイレに通っていた。 ナースステーションの前を通ると、 「あっ!山田さんが歩いてる!!」と中から声がかかる。 看護師さんや助手さんとすれ違うとまたまた、 「山田さんが歩いてる!」と言われる。 皆にニコニコして手を振りながら、 「歩けるようになりました〜」とご挨拶しながらトイレに往復した。 「オッ!歩いてる!!」と男性から声がかかった。 手術前によく挨拶を交わした、たぶん同じ日に手術して苦しい術後を回復室で共に戦っ たTさんだ。 その後ちゃんと確認してそうだとわかった。 「あんな大変な手術して、もう歩けるんだ!」とびっくりしていた。 この日、自由の身になって初めてのレントゲン撮影があった。 診察券を首から下げた、ベビーピンクハウスのうさぎのハンドパペットも復活した。 翌日も昼前に呼ばれて歩行器で自力でリハビリ室に行った。 ベッドに仰向けに寝て足が自由に動くようにまた筋力がつくように、平山先生が動かし てくれたり、自分で力を入れたり。 その後バーの間を歩く練習。 その時、つま爪先に力を入れてと言われたのだったか? それがヒントになって、その夜歩き方を思い出した。 数日間はロボットのように歩いていた。 足を交互に出すことは忘れていなかったので、前に進むことには問題はなかったが、 その夜、足の裏を意識することを知った。 足の裏で微妙にバランスをとりながら歩いていたのだ。 足の裏で床を感じるように、足の裏で床を押して次の一歩を出す。 当たり前にやっていた事が、意外に複雑な事だった。 でも、すぐにその感覚を思い出すことができて、歩くのが上手になった。 翌日、またTさんに声をかけられた。 「あっ、普通に歩いてる!」 看護師さんたちに廊下で会うたびにニコニコ顔で、 「歩くの上手になりました〜」と宣伝しながらトイレを往復した。 身長を計ってもらったら153センチになっていた。 なんと8センチも背が伸びていた。 計ってくれた看護師さんも私もびっくり!他の看護師さんたちにも報告した。 お通じが良くなったのは良いが、お腹が下りっぱなしになって、その日担当の看護師 さんに相談して、ビオフェルミンを出してもらうようになったら、その症状は徐々におさまっ た。 12月18日(木)、起きられるようになって初めての血液検査。 術前のように朝8時にナースステーションの前に行く。 寝たきりの時、病室にも採血に来てくれた女性の担当者に、 「ホームページ見ましたよ。」と言われた。 部屋に楽器の絵はがきがたくさん貼ってあって、演奏している写真がデジタルフォトフレー ムで再生されていたから、看護師さんたちにも最初は演奏家だと思われていた様だが、 そのうち絵はがきは写真ではなく、私が描いた絵だという事が広まった様だ。 ナースステーションのパソコンのお気に入りにも、私のホームページが登録された。 平日は毎日リハビリがあったが、この日、初めて杖での歩行の練習をした。 レントゲン撮影もあった。 夕方、トイレに行っていたら母が呼びに来た。 中井先生が私の部屋に来てくれたとの事。 歩行器でナースステーションの前を通って、自分の部屋へ急いだ。 先生が廊下をゆっくりと、こちらに向かって歩いて来た。 上手に歩けるようになったのを見せようと、私もゆっくり上手に歩いて近づいて行った。 至近距離になって、何てお礼を言おう?と思ったとたん、 「お〜!背が伸びたね!!」と言われた。 「は〜〜い!ナント8センチも伸びました〜」 「オ〜!!」と言って先生はのけぞった。 まだ歩行器を使っていたある日、トイレの帰りに、廊下に置いてあった歩行器をよけて すっと通りすぎようとして、ハッと思い出して歩行器を連れて帰ろうとした。 「あっ!今、歩行器忘れたでしょう!」Tさんに目撃されていた。 「ばれた〜?」と私。 それにしても、どうしてこういうタイミングでここにいるわけ?と思った。 それから数日して杖での歩行が許された。 でも消灯後トイレに行く時は寝ぼけて転んだりしたらいけないので、当分歩行器を部屋 に飼っておいた。 他の部屋は廊下に置けるのだが、私の部屋は一番端で廊下は行き止まりなので、スト レッチャーや車椅子、歩行器のプールになっていたため、そこに置いておくと、次の人に 持っていかれてしまう。 これを書きながら思いついたのだが、名札でも付けておけば良かったのかも・・・。 副師長さんは回診の時、毎日の様に、 「この部屋は癒されるわね〜」と言ってくれていた。 絵と静かな音楽がある部屋に、看護師さんも助手さんも多忙な毎日の中で、一瞬ホッと してくれていた様だ。 タオルもバスタオルも私の大好きなブランド、ピンクハウスのイチゴや花やウサギのデザ インのものを、使っていた。 枕にはいつもイチゴの柄のバスタオルを巻いていた。 ギブスを巻いてからは、ゴロンと転がされることは無くなったので、背中の下にバスタオ ルを敷く必要は無くなっていたのに、気づかずに、12月中はずっと敷いていた。 きれいとはとても言えない、この本館の私の部屋が気持ちいい理由は他にもあった。 12月1日の私の手術中に、主人が東急ハンズまで掃除用具を買いに行って、徹底的 に掃除をしてくれたのだった。 普段掃除ができない配管の上も、窓ガラスの外側も、エアコンのフィルターも。 何もせずに手術が終わるのを待っているのも辛かったのだろうけど、掃除魔なのだ。 年末には業者さんが、窓ガラスとエアコンのフィルターを掃除してくれたが、きれいなの で不思議に思ったかもしれない。 12月19日、バラ専門店に注文しておいた、私が一番好きなバラであるブラックティー が届いた。 上品な香りと深いこっくりした色が、他にはない魅力的なバラで、私はよくモチーフにも 使っていた。 ブラックティーを飾ると、319号室がますますお気に入りの部屋になった。 このページのTOPへ戻る |
13.病棟の仲間たち |
病室の手配をしてくれる入院係の紙屋さんが、 「ご希望だった新館のバストイレ付きの部屋が空いたから移れますよ。」と言いに来てく れた。 聞くと5階だという。 新館のリハビリ室の隣だから、千鳥ヶ淵を見下ろす最高のロケーションだ。 しかし、どうしてもこの部屋を、3階を離れることはできなかった。 特に術後の苦しい日々を乗り越えさせてくれた看護師さんたちと、離れることなんてとて もできなかった。 彼女たちが大好きだった。ずっと彼女たちといっしょにいたかった。 319号室もしっくりとなじんで、私の部屋になっていたし。 翌日、5階の最高の部屋を断って、 「この部屋にいることにしました。」と紙屋さんに伝えた。 「そうだと思ってました。」と言われた。 ちゃんと私の気持ちを、わかってくれていたらしい。 ある日、ナースステーション前のロビーで、初老の上品な奥様に声をかけられた。 その日に入院したらしい。 「手術はもう終わったの?」と尋ねられた。 「はい、12月1日に。大きな手術だったんですけど、やっと歩けるようになりました。」 「痛くなーい?」 「手術直後は相当痛かったですけど、今はほとんど痛くないです。」と答えた。 ご自分の手術が心配なようだ。 どんな手術をしたのか尋ねられたので、私は腰椎全部とその上の胸椎10番から12番 まで8個の骨をつなぐ、背中とお腹を切る手術で、14時間近くかかったと話した。 その方は腰椎の3番と4番の手術とのこと。 私は安心した。私のような大変な思いをされるとしたら、気の毒だなーと思ったのだが。 いっしょに部屋に向かって歩いて行ったら、お隣の部屋だった。 私がそんなに大変な手術に耐えたんだから、自分は楽な方だと思ってくれただろうと思 ったが、翌日ちょっと心配になった。 私は手術前に血液検査で待っていた時、隣のおじさんに、 「手術、怖くないよ!」と言ってもらったのを思い出した。 そうだ施無畏だ!私も言ってあげなきゃ! すぐ向かいのトイレに行って、帰ってくる音がしたので出て行って、 「手術、怖くないですから、大丈夫、勇気を持って!」と言った。 彼女は手術の数日後には、もう一人で向かいのトイレに行っていた。 会ったわけではなく音でわかったのだが、安心した。 その後、退院まで何度か話をした。 1月中旬に退院して行ったが、前日ロビーで会って、 「退院おめでとうございます。良かったですね。」と言ったら、 「ありがとう、ありがとう・・・」と手を握って言ってくれた。 退院当日、私の絵はがきをプレゼントした。 猫の模様のパジャマを着ていたので、猫の絵にした。 ご主人に、 「話相手になってくれて、ありがとう。」と言われた。 そんな心温まるコミュニケーションも九段坂病院の大切な思い出となった。 コミュニケーションと言えば、Tさんは人気者だった。 回復室にいた時、廊下で騒いでいた別の大部屋の患者さんが、毎日向かいのTさんの 部屋に来て、大声で話しては、 「がはははは・・・」と笑っている声が聞こえた。 Tさんがうるさい訳ではなく、声の主はいつもその悪友なのだが。 その部屋には大将と呼ばれるおじさんもいて、6階からも仲間が集まって来て、ワイワイ やっていた。 いつもその悪友が大将の車椅子を押して、連れ立って出かけて行った。 どうやら喫煙所に通っていたらしい。それをヤニ仲間と言うそうだ。 どおりで階を越えた友好関係が確立しているのだ。 ある日、自分の部屋のドアを開けると、その6階の患者さんが目の前にいた。 向かいの病室から仲間たちが出てくるのを待っていたらしい。 「個室ですか?寂しくないですか?」と尋ねられた。 「私は大きな手術だったから、個室じゃないと周りに迷惑かけちゃうし・・・」と答えたが、 彼らにしてみればワイワイやっていないと寂しいのだろう。 ある朝、血液検査が終わって、そのままロビーのソファーに座っていたら、Tさんが通り かかった。 「どうしたの〜?」 「別に〜・・・。ねえねえ、あなたの友達どっこも悪くなさそうで、いつも元気だけど、首じゃ ないから腰の手術だったの?」と尋ねてみた。 「前に腰椎の手術をして、今回は金属を外す手術だったんだって。」 「へ〜そうなんだ。」と言っていたら、タイミングよく彼が通りかかって、はずした金属を見 せてくれると言う。 長さ6センチ太さ5ミリくらいのスクリュー4本と他の部品だった。 「私もこういうの、いっぱい入ってるのよね。8個の脊椎をつないだから8本?1個の骨に 2本ずつだから・・・16本? でも1カ所飛ばすかもしれないって言ってたから、14本かな?もうちょっと短いかもしれ ないけど・・・」と言っていたら、またまたタイミングよく主治医の三宅先生が通りかかった。 「あっ、三宅先生!私にはこういう金属、何本入ってるんですか?大きさは?」と尋ねた。 「スクリュー部分が45ミリのと40ミリのが合計16本、ほとんどが45ミリだけど。」 45ミリので全長57ミリくらいになるか・・・。 私も少々驚いたが、Tさんはぶっ飛んでしまった。 長時間の大きな手術だったが、そこまですごい手術とは思っていなかったらしい。 スクリューをつないで矯正固定するための、直径5ミリ程、長さ25センチくらいの2本の 金属の棒と、前側から腰椎の間3カ所にも、前彎にするためにケージという金属が挿入 されている。 私は金属を外すことはない。一生筋金入りで生きるのだ! このページのTOPへ戻る |
14.土管のゆりかご |
ある時気がついた。右膝の感覚が鈍い。 強く押すと感じるが、撫でると表面の方は感覚が鈍いことがわかる。 膝の少し上までこの様な状態だった。 回診の先生たちには毎日報告していたが、だんだん良くなるだろうから様子を見ましょう、 ということだった。 歩き始めてどれだけか経ったころ、右膝の内側の少し下の部分が、触られると痛いこと に気がついた。 三宅先生を呼んでそのことを伝えた。 先生がそのあたりをあちこち押さえてみて、 「ここ痛いですか?」「ここ痛いですか?」「ここ痛いですか?」と尋ねる。 「痛い!」「痛い!」「痛い!!」 「注射すれば、すぐ治りまよ。」 「痛くありませ〜ン」 先生はくすくす笑いながら、初めに医学用語を言ってから、 「これは、あれ、あれですよ。筋肉痛。」 「注射がイヤなら、塗り薬出しますから。」 誤解された!最後に押されたところが痛くなかったから、 「痛くありませ〜ン」と言ったのに・・・。 12月22日、昼前から熱が出て、最高38.5°になった。三宅先生に、 「排尿時に痛みとか、違和感はありませんか? 」と尋ねられた。 膀胱炎が疑われるので、尿検査となった。 祭日もあって、尿検査の結果が出るのに数日かかった。 熱の方は氷枕と自力で、翌日には平熱に下がっていた。 検査結果はやはり膀胱炎だった。 尿管を抜いた後は、膀胱炎になりやすいから、たくさん水分をとって、たくさん尿を出すよ うにと言われていたのに、もっと真面目にやれば良かった。 クラビットが処方され、1週間ほどで膀胱炎は治った。 12月24日、リハビリの時、病棟内の杖での歩行の許可が出た。 午後からはコルセットの採寸がある。 脚長差があったので、どのような状態で立っていたらいいのか、事前に三宅先生を呼ん で相談した。 今後5カ月以上着けなければならない、固いコルセットを作るので心配だった。 看護師さんと二人で、ギブスを巻いた部屋に行った。 装具屋さんがギブスの右脇を切って、ギブスを外した。 蝉が殼から出るのに似ている。 ギブスは硬くて元の形に戻ろうとするので、装具屋さんと看護師さんが開いてくれて、挟 まれない様に身を細くして「きゃ〜〜」と言いながら殼から出た。 蒸しタオルで身体を拭いて、その後身体にラップを巻かれた。 ギブスと同じものを二重くらいにうすく巻いて、手際よく型を採った。 その後、また殻を着せられてガムテープで右側を閉じた。 部屋に帰ると、主人と母が来ていて、紅茶をいれて、主人が買ってきてくれたケーキを 食べた。今夜はクリスマス・イヴだ。 部屋に飾ったブラックティーは咲き誇り、控えめで上品な香りに部屋は満たされていた。 その後、夕食ではチキンも出たがケーキも出た。 さすがに2個目のケーキは半分残してしまった。 翌日、ブラックティーをドライフラワーにするために吊るした。 ちょうど部屋の真ん中に、点滴に使ったポールが、天井から吊るされたままになっていた ので、そこにSカンを引っかけて、束ねたブラックティーを吊るした。 高貴な香りが部屋に充満した。 自分でもここが病室とは思えなくなった。 ちょっと不謹慎に思えたが、クリスマスだけは許してもらって、翌日別の場所に移動した。 移動した場所は壁際だったが、酸素と吸引の配管の上の部分に、またSカンで引っかけ たのだった。 どちらが不謹慎だか・・・? リハビリでは初めて階段昇降の練習をした。 午後から、特浴で助手さんに髪を洗ってもらった。 12月26日午後、病棟のお風呂で助手さんに、シャワーで腕と下半身を洗ってもらって、 新しいパジャマに着替えて廊下に出てきたら、ナースステーションの方から中井先生が スーツ姿の男性数人を引き連れ、白衣をひるがえしながら颯爽と歩いて来た。=イメージ (眼鏡もコンタクトレンズもしていないので、よく見えていない。) 中井先生は私を見つけるとニコニコしながら近づいて来て、私の両肩に両手を置き、私 の身体をガクガクと前後に揺すりながら、 「まだ、いたの〜?」と言う。 私もニコニコしながら、 「先生、な〜に言ってるんですか〜?」と答える。 「お正月は?どうすんの?家に帰らないの?」と先生。 「えっ!そんなこと出来るんですか?何にも言われてませんけど?」 先生は新館に向かって歩き始めていた。 「どうしたらいいんですか〜?」先生の後ろ姿に声をかける。 「言えば大丈夫だから!」と言いながら合図して、中井先生は新館の廊下を曲がって フェードアウトした。 部屋に帰ったら主人も母も来ていて、今のことを報告した。 「術後まだ1カ月も経っていない患者を、あんなにガクガク揺らしていいの〜?別に平気 だったけど・・・。」 「もしかして、どれくらい丈夫になったか、それは診察だったのかも?」とか3人でふざけ たことを言っていたが、中井先生は期待以上の面白い先生だ。 もう外泊許可が出るというのは嬉しいことだった。 術前はお正月には家に帰れるなんていう話を、中井先生から聞いていたが、術後はそん なことは考えもしなかった。 でも、術前に先生が言ったとおり、順調に回復しているのだ。 結局、病院にいる方が安心で安全なので、家には帰らないことにした。 術後ずっと熟睡したことがなかった。 はじめのうちは痛みと呼吸の苦しさで、次には便秘で苦しくて、ギブスを巻いてからは、 寝心地が悪くて。 「毎日、土管の中で寝てるんだから、熟睡できないよ。」と言っていた。 夜中にも何時間かおきに、ナースステーションの向こう側のトイレに通っていた。 別にあまりトイレに行きたいわけでもないけど、気分転換にちょっと散歩。 熟睡できないと、夜はあまりにも長かった。 しかしその日、頭をよぎるものがあった。 閃いたのは「土管のゆりかご」! 基本的に上を向いて寝る。 その時、身体の上の方は空いていて圧迫されることはない。 左右は身体をホールドされる様な感じで気持ちいいかも・・・とイメージした。 不思議なことに、その夜から土管はゆりかごになった。 術後初めて7時間熟睡することができた。 翌日さっそく看護師さんたちに、熟睡できたことを報告した。 看護師さんたちは「土管のゆりかご」を面白がってくれたが、三宅先生には通じなかった。 その日以来、熟睡を手に入れた。 12月27日、Tさんが退院して行った。 彼の悪友は1週間前に退院していた。 「1月16日に外来で来るんだけど、お見舞いに寄っていい?」と尋ねられた。 「もちろん!楽しみに待ってるから!無理しない様にね!」 喜ばしいことだったが、戦友が去って寂しくなった。 私にはまだ後1カ月の入院生活が必要であった。 このページのTOPへ戻る |
15.九段坂のお正月 |
12月29日には、バラ専門店からジュリアが届いた。 これも私が大好きなバラで、何度かモチーフに使った。 サーモンピンクから薄茶色の上品なバラで、優雅な表情を持っている。 咲ききってからも感動的に美しいのがこのバラの特徴であり、私の愛するところである。 27日土曜、28日日曜に多くの人は退院または一時帰宅し、30床以上ある3階病棟で お正月を迎える人は10人ほどになっていた。 病院の夜は長い。家ではほとんどテレビを見なかった私が、夜、主人と母が帰って一人 になったら、面白そうな番組があると見るようになった。 大河ドラマなど子供のとき以来ほとんど見たことがなかったが、「篤姫」の総集編を見た。 以前から医療もののドラマだけは、たいてい見ていた。 年内見ていたのは「チームバチスタの栄光」。 術後3日目、個室に戻った翌日、主人がその週の回をDVDに録画したものを持ってきて くれて、ベッドの手すりにノートパソコンを立てかけて見た。 リアルな心臓手術のシーンが出てくるのに、自分の手術のことを思い出して、具合が悪く なったりしないかと思ったが、問題なかった。 年が明けてからは「VOICE」「小児救命」「コードブルー」の特番と医療ものの目白押し だった。 主人が部屋に鏡餅を供え、ドアにはお正月お飾りを付けてくれた。私の部屋のお正月 の準備は整った。 食事を作ってくれる部署の人が、年越しそばを食べるか尋ねに来てくれた。 もちろん食べます。 夜中にそばを食べる元気な人は少ないから尋ねに来たのかと思ったら、31日の夕食に そばが出た。 夜中じゃないのね、病院だもんね。 そばアレルギーが無いかどうかということだったのかな? 翌日にはお餅を食べるかどうか尋ねに来てくれた。 元旦は千鳥ヶ淵からの初日の出で迎えた。元旦も快晴。 暖かな日差しが部屋に差し込み、ジュリアは満開を過ぎて予想通りの圧倒的な美しさ。 1年のスタートを幸せな気持ちで迎えた。 朝食のトレーには「明けましておめでとうございます。栄養科一同」というカードが乗って いた。 お食事を作ってくれる部署は栄養科って言うんだ。 お雑煮にお餅が入っていて、黒豆が驚くほど美味しかった。 中井先生と三宅先生とナースステーションには私の絵はがきに新年のごあいさつを書い てあった。 いつもお食事が美味しいので、主人に、 「ご飯作ってくれる人達にも年賀状書きなさい。」と言われていたが、宛て名を何としたら いいかわからなかったので書いていなかった。 栄養科だとわかったので、「美味しいお食事をいつもありがとうございます。」と書いて、 年賀状を4枚ナースステーションに持って行って、渡してくださいとお願いした。 昼食には大きな海老、夕食には鯛の尾頭付が出た。 毎回違ったお節料理も付いてきた。 夕食には何と大きな干し柿も付いてきた。 あまり干し柿は好きではなかったが、とても立派で美味しそうだったので、一口かじって びっくり!こんな美味しい干し柿は初めてで感動した。 主人が、 「これはあんぽ柿で、とても高いんだ。」と言う。 お正月を病院で過ごさなきゃいけない、かわいそうな患者のために積み立ててくれてい たのかな?と私は思ったが、主人は私が年賀状を出したから、私だけ特別だったのだと 決めてかかる。 彼の推測では、患者さん用に普通の干し柿、自分たち用にあんぽ柿を仕入れて、私の お皿にだけ自分たち用のあんぽ柿を、乗せてくれたのだということになっている。 果たしてどちらが正解か? お正月の病院は、いつもより平和でのんびりしていた。 日中担当の看護師さんが血圧を測ってくれている間に、中井先生との出会いの話をした。 「九段坂病院の紹介状を書いてもらって、どの先生に受診しようかと、ホームページで先 生方の写真を見て、一番優しそうな先生を選んだら、中井先生だった。」と話したら、 「中井先生、優しそうですか?色黒いけど。」という答えだった。 この返事がすごく面白くて、主人に話したら、またまた受けた。 それ以来二人の会話では、中井先生について話すと、意味なく最後に「色黒いけど。」と いうセリフが付くようになった。 大晦日の夜勤の看護師さんは気の毒だなと思っていたら、同じ看護師さんが1月2日の 夕方5時過ぎに「夜勤で〜す。」と交代の挨拶に来てくれた。 ますます気の毒と思っていたら、主人が、 「ジャンケン弱いでしょ?」と尋ねた。 主人はあまり看護師さんの顔や名前を覚えなかったが、そのジャンケンの弱い看護師さ んのことだけは覚えた。 手術直後、回復室で私がキティが大好きなんだと誤解した看護師さんだ。 キティって普段意識してないけど、猫なんだ。私の場合ウサギじゃないとね。 ウサギと暮らすようになって、もう10年近くになるし。 起きられる様になってからは、ミッフィー(ブルーナの絵本のウサギ)の膝掛けを家から 持ってきてもらって、毎日使っていた。 1月2日の日中に三宅先生が来てくれた。 「今日からお仕事ですか?」と尋ねたが、当直だったのかな? 「いつから外出できるんですか?」と尋ねてみた。 「階段昇降ができる様になったら。」という返事だった。 まだ右脚の筋肉痛は治っていなかった。 そんなに長引くのなら注射してもらえば良かった。 「右脚の筋肉痛が治ったら、階段昇降の練習をしようと思ってたんだけど、まだ痛いんで すけど・・・?」と尋ねた。 今の状態で階段昇降をやっても良いという答えだったので、2日と3日に練習して、問題 なかったので、主人にコートとジャンパースカートを持ってきてもらって、4日に外出許可 を取って、靖国神社に初詣に行った。 もう1カ月以上、病院から一歩も外に出たことがなかった。 「転ばないように。」と念を押された。 病院を一歩出たら人通りが多く、ぶつかって転んだら大変だから、主人にしがみついて、 左手では杖をついて歩いた。 病院から30メートルくらい歩いて、横断歩道を渡ると、もう靖国神社の参道の中間地点 まで来ている。 どの程度歩けるかと思ったけど、調子良く、疲れる様子も無く、スムーズに歩いて行けた。 若者やカップルが多いのが意外だった。 右翼のパフォーマンスもあった。 最後の鳥居をくぐり、拝殿前にたどり着いた。 仏教徒なので柏手は打たず、合掌して祈った。 終戦直前、軍医として輸送船に乗り組み、南海に沈んだ祖父に、ここまで回復した報告 と感謝を込めて。 日本国のために戦った多くの方々に、廻向の心を込めて。 帰りに振る舞い酒をいただいた。 主人より私の方がたくさん入れてもらえたので、主人は不満な様だった。 帰りも何の問題もなく、スムーズに歩いて帰って来た。 以前から入りたかった喫茶店があったので行ってみたが、まだ休みだった。 それで同じビルのドトールコーヒーに入った。 コーヒーを飲んでケーキを食べて、こういう場所でこうしていられるなんて、夢の様、こん なに回復したのだと実感した。 1月5日、この日から病院は正式に始動した。 朝から血液検査、リハビリ、レントゲンがあった。 午後4時に放送があった。 「4階講義室で院長の新年のご挨拶がありますので、関係者はお集まりください。」 患者って関係者じゃないの?院長に執刀してもらったのに? ダメで元々と思い、ナースステーションに尋ねに行こうと、部屋を出た。 ちょうど師長さんがワゴンを押しながら廊下をこちらに向かって歩いてきた。 師長さんにそんなこと言ったら叱られるかな?とも思ったが、尋ねる相手には最適と思い、 勇気を出して尋ねてみた。 「今、放送がありましたけど、中井先生の新年のご挨拶には、患者は出席できないんです か?」 一瞬の間があって、 「今は回診も無いし・・・会いたいのよね?」 「はい!」と元気よく答えた。 「伝えておきます。」という返事だった。 少し時間が経って、入院係の紙屋さんが、 「院長は今忙しいので、少しお待ちください。」と言いに来てくれた。 中井先生が来てくれるんだ! 主人と母も一緒に待っていた。 20分ほどして、中井先生が私の部屋に来てくれた。 手には私の年賀状を持っていた。 「先生!明けましておめでとうございます!」元気一杯に挨拶した。 「お正月帰らなかったの?」 「病院の方が安全だし、住み心地が良いので、残ってました。」と答えた。 脚長差については、コルセットが全部外れたら良くなるだろうとのことだった。 「昨日、靖国神社に初詣に行ってきました。どこまで歩けるかと思ったけど、ちゃんとお参 りできて、帰りには振る舞い酒もいただいてきました。」と報告した。 「それはいけませんね。強制退院です!」と笑いながら中井先生。 先生への年賀状の最後に「一緒に写真撮ってください。」と書いておいたので、 「今、一緒に写真撮ってもらえますか?」とお願いした。 そして、ちょうど主人に写真を撮ってもらっている最中に、看護師さんが夜勤の交代の挨 拶に来て、 「あっ!院長!」と驚いていた。 院長の新年の挨拶の後、乾杯があったらしく、色黒の中井先生は赤黒くなっていた。
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16.日焼け?霜焼け? |
1月に入って体調は格段に良くなっていた。 夜はちゃんと眠れるし、夕方になってもあまり辛くなくなった。 体力が回復してきた様だ。 しかし、まだ貧血は回復しないらしく、毎食後に鉄剤を飲まなければならなかった。 一発、増血剤を打ってくれれば、すぐに治るのに・・・と思った。 12月下旬からは部屋でお湯を沸かして、よく紅茶を飲んでいた。 主人がホテルの部屋にあるような湯沸かしポットを用意してくれたのだ。 ゴディバのチョコレートや、主人が持ってきてくれる千疋屋のデザートやモロゾフのプリン などを、主人と母と一緒に食べながら。 ちゃんとカップはおしゃれにミントンのマグカップを使用。 1月に入ってからは一人で1日に何度もティータイムをした。 朝焼けを眺めながら、アーリー・モーニングティー。 10時ごろには午前のティータイム。 紅茶をいれて千疋屋のムースなどを食べようとしていると、なぜか狙ったように、検温と 血圧の測定に看護師さんがやってくる。 気をつかって、 「後にしましょうか?」と言ってくれたりするが、 「全然かまいません。ティータイムを後にしますから。」 午後は2時ごろ一人で。夕方は主人か母と一緒に。 夜は消灯前にイブニング・ティー・・・と、入院前よりティータイムの回数が増えた。 部屋はとても快適だった。 12月中旬に主人が加湿器を用意してくれたので、そのおかげもあったが、何より、南東 向きの窓が素晴らしかった。 起きていると2階の屋上や柵が見えるが、ベッドに横になると窓全面が空になる。 窓にはたいてい真っ青な空が描かれていた。 時には壮大な雲のドラマを描いてくれた。 術後部屋に戻ってきたころも、1日中窓から空を眺めていた。 その後も1日のうち長い時間、空を眺めていた。 自宅のマンションはほとんど空は見えない。 その代わり壁には私のワイドサイズの絵を飾ってあった。 病室には小さな絵しかなかったが、この大きな窓が大好きで、いつも私に元気と勇気を 与えてくれていたように感じる。 朝8時くらいから、午後2時くらいまで、冬の斜光がたっぷりと差し込む。 他の部屋の人は、カーテンを引いているようだったが、私は自宅があまり日が入らない ので、冬に病室で日焼けなどという、おかしなことになってもいいやと思い、できる限り 部屋に陽光を入れていた。 日焼けした患者って健康的に見えるだろうな・・・。 そんなある日、事件が起こった。 両足の小指の外側の感覚が鈍い! 神経が圧迫されているのではないか!と恐れた。 しかしナントそれは霜焼けだった。 日焼けするかと思った部屋で、霜焼けになってしまった。 皮膚科の先生に、 「院内は結構冷えてますから、ちゃんと靴下を履くように。私も2枚履いてます。」と言わ れた。 ずっと履かせてもらっていたが、最近はさぼっていた。 靴下は自力では履けなかったのだ。 翌日回診のM先生に、 「霜焼けになったので、皮膚科の先生に靴下を履きなさいと言われたのですが、入院中 は看護師さんに履かせてもらうとして、退院したらどうやって履いたらいいんですか?」と 質問した。 その先生の答えは、 「しもべみたいのいないの?」だった。 この答えが面白すぎて、夕方主人が来たら早速報告した。 「屋敷しもべ妖精に靴下を渡したら、いなくなっちゃうよ。だからこの答えは間違いだ!」 ハリー・ポッターなら私の方が詳しいのに、主人に一本取られた。 私は直後にベッドサイドに座って、片足ずつ正座するように膝を曲げてベッドの上に上げ、 身体を逆の方向に倒しながら、自力でかろうじて靴下が履けるようになった。 主人は「しもべみたいの」って自分のことを言われていると少々ふざけて怒りながらも、 退院後、「しもべさん」の役割をよく果たしてくれている。 1月5日から、新しい患者が続々と入院してきていた。 6日朝食を終えて、トイレに行こうとナースステーションの前のロビーを通りかかったら、 毎日朝食の頃に新聞を売りに来る、新聞屋のおじさんが、これから手術を受けるという 中年の男性の患者さんと、ソファに座って話をしていて、励ましているのが耳に入った。 何とも良い光景を目にしたと、嬉しくなってニッコリして挨拶したら、新聞屋のおじさんが、 「新聞売らないで、油売ってた。」と言って、その患者さんに挨拶して席を立った。 そして私に「今朝はもう新聞売れないから・・・」と言って読売新聞を1部くれた。 術後1週間くらいは、上向きに寝たまま新聞を保持することも出来なかったが、体力が 回復してくると、新聞を読むのが日課になっていた。 家でとっている2紙を主人が夕方持ってきてくれるので、大体1日遅れで新聞を読むこと になったが、入院中の私にとっては世の中の情報が1日遅れても何の支障も無かった。 1日3紙はとても無理だったので、もらった読売新聞をその日は優先的に読んだ。1面に はなかなか鋭いことが書かれていた。 三宅先生が回診で、 「調子はどうですか?」と尋ねられたので、 「絶好調!」と答えた。 前述のとおり1月に入ってとても身体が楽になっていたので、嬉しくてその様に言ったの だが、三宅先生はなぜか困った顔をした。 主治医なのに、喜んでくれたらいいのに・・・と思ったが、想定外の答えだったのだろう。 「絶好調!」などと言う入院患者はまずいないのだろう。 カルテに書くのに困っていたのかな? この日は、シャワーもしてもらって、特浴で髪も洗ってもらって、すっきりして、夕方主人 とカフェ・ミエルにお出かけした。 4日はお休みだったが、この日はやっていた。 予想通りのアンティークな内装と家具で、何とも好みのカフェだった。 この日からこのカフェの常連客となった。 普通はリハビリのために散歩するのだろうが、この寒いのに散歩などする気もない。 私の外出は決まってこのカフェだった。 1月7日はコルセットの仮着だった。 9日完成の予定だったが、無理そうだと聞いてがっかり。 でも、ちゃんと9日に完成していた。 9日午前中に予告無く、軽井沢の友人がお見舞いに来てくれた。 数日前、年賀メールを送っていた。 軽井沢でプチホテルをやっているご夫妻で、ご主人が軽井沢でメールを読んで、東京の 家に帰っている奥さんに知らせた様だった。 彼女の想像を越えた大きな手術を乗り越え、目の前で元気にしている私を見て、涙ぐん でいた。 1月10日、ギブスが外れて、脱着式のコルセットになったので、待ちに待った全身シャ ワー解禁だ! 午後、看護師さんの入浴の指導を受けて、手術以来、初めて自分で髪を洗い、全身を シャワーした。 装具を着けていない私の身体は、何だか頼りなく感じられたが、シャワーの時間、ちゃん と自力で立っていることが出来た。 脱衣の時、コルセットは最後に外し、着衣の時は最初に着ける。 シャワーの時間は一人20分以内で、ということになっていたが、衣服とコルセットの脱着 だけで15分以上かかってしまう。 コルセットの脱着に時間を要したが、身体が曲がらないので、自分でパンツを履くのが 何より大変で時間がかかった。 出来なければ看護師さんを呼んで、履かせてもらえば良いのだが、自力で履くことに毎 回チャレンジした。 が、それは無駄なことだったと、後でわかることになる。 部屋に帰って、気分よくドライヤーで髪を乾かしながら、美容師さんに教わった様に指 で巻いて縦ロールにした。 入院中のヘアスタイルについては、入院1年前から美容師さんと相談して決めていた。 近年は背中の変形が目立ったので、髪を長くしていたのだ。 20センチ切ってセミロングにし、デジタルパーマをかけてもらった。 普通のパーマと逆で、デジタルパーマは濡れると伸びて、乾くとウェーブが出る。 髪を洗ってもらったり、不自由な身体で自分で洗うのに、またその後の手入れが楽だろ うということだったが、正しく正解だった。 髪を巻いている最中に、入浴の指導をしてくれた看護師さんが様子を見に来てくれた。 「はい、大丈夫でした。とても気持ちよかったです。」と答えた。 その後、廊下で別の看護師さんに会ったら、 「噂の縦ロール!」と言われた。 「山田さん縦ロールにしてたわよ。」とナースステーションで広まった様だった。 ご期待に答えて、ホットカーラーを持ってきてもらって、退院まで、ず〜っと毎日、縦ロー ルにしていた。 入院中、縦ロールの患者って変ってるかも・・・。 9日にコルセットが完成する予定で、メールで10日に二人の友人を新年会に招集して いた。 集合場所=九段坂病院3階319号室、集合時間=午後5時、 その後、イタリアンの店に移動。 「新年会・・・新年会・・・(ルンルン)」と言いながらナースステーションに行って、外出許 可書に新年会と書くのはまずいから、外出の目的は「お食事会」と書いた。 主人と4人で6時に病院のすぐ近くのイタリアン・レストランに行った。 一人はボランティアで知り合って以来15年以上のつきあいのFさん。 もう一人は、数年前知り合った、同じジャンルの音楽の愛好家のAさん。 二人とも偶然私と同じ歳で、主人と共通の友人だ。 Fさんは前年11月に会社のリフレッシュ休暇で、2週間ローマ一人歩きの旅をしてきた。 Aさんは12月にバッハ・コレギウム・ジャパンのヨーロッパツアーの追っかけをして来た ばかり。 二人ともすごいキャリア・ウーマンだと感心したが、私もすごいかもしれないと思った。 この大手術はしたいからといって、してもらえるものではない。 お料理も美味しく、久しぶりで4人で盛り上がった。 私はそんなに長時間起きていられるとは思わなかったのに、あっと言う間に2時間以上 が過ぎ、面会時間ぎりぎりに病院に戻って来た。 一人は方向が違うので先に帰った。 「面会時間が過ぎちゃうから一人で部屋に戻るから。」と言ったが、主人が、 「一人じゃズボンは履き替えられないでしょ!」と言って、結局二人の酔っぱらいを連れ て、暗くなった3階病棟に帰って来た。 注)バッハ・コレギウム・ジャパン バロック音楽専門のオーケストラと合唱団。1990年に東京芸大の鈴木雅明教授によって設立された。 バロック時代の音色を再現するとともに、宗教作品の意味を明確にするため、作曲当時の演奏スタイルを 手本としているのが特徴。 (サンケイEX 2008.12.07号より引用。〜「最高のバッハ」バッハ・コレギウム・ジャパンが欧州を唸らせた〜 というドイツの教会での演奏会のカラー写真入りの記事を、退院まで私の部屋のドアに貼ってあった。) このページのTOPへ戻る |
17.入院延長作戦 |
ギブスはどこも当たったり、痛いところが無く、とても着け心地が良かったが、私の1週 間後に、同じタイプの手術を受けた男性の患者さんは、毎日、ギブスが当たって痛いと 言っていたそうだ。 三宅先生はギブス巻きの天才なのだと思った。 ギブスを外した日、母が病棟のゴミ置き場にゴミを捨てに行ったら、大きなギブスと小さな ギブスが並んで置いてあったそうだ。 その光景、私も見ておくべきだった。 私は約1カ月間ギブスをしていたが、その男性は3週間で済んだ様だ。 ギブスでもう1つ大変なことは、ギブスをしている胸から腰までは、洗ったり拭いたりで きないことだ。 看護師さんが、アルコールを含ませた包帯を身体とギブスの間に上から下に通して、上 下に引っ張りながら一周拭いてくれるが、これだけではなかなかすっきりしない。 でもギブスを着けていた約1カ月の間、痒くなることが無かったので助かった。 髪を洗ってもらうのも困難だったが、特浴の洗髪用の洗面台で2回目に洗ってもらった 時には、楽で無理のない姿勢がわかって、洗われる方も上手になった。 ムースのドライシャンプーも使っていたが、自分で髪が洗えない間、痒くなることが無かっ た。これも助かった。 腕と下腿、特に腕は近年ひどいアレルギー性皮膚炎だったのに、入院前から炎症が 出なくなっていた。 入院してからも、手術してからも、全く痒くならなかった。 唯一、術前のテープのパッチテストでは、外した後、痒くなってしまった。 手術をしたら皮膚炎も治ってしまったのかと喜んでいたら、1月8日くらいからまた腕の 皮膚炎が再発し、院内の皮膚科に通うようになった。 皮膚科の先生には、術後3日目に部屋に往診に来てもらったことがあった。 掌の皮が薄く一皮むけてしまったのだった。 細菌性のものでは無かったので、普段から使っていた尿素が主成分の保湿剤を塗って おけばよいとのことだった。 長時間の手術(麻酔)のストレスによるものだったのだろうか? 皮膚科の看護師さんには、首から下げてるウサギが気に入られて、すぐに仲良しにな った。 「家にはイチゴっていう名前のウサギがいるんだけど、入院中は留守番なの。」と話した。 血液検査のアレルギー検査を受けたが、何も引っかからなかった。 飲み薬と塗り薬を処方されていたが、昼間は我慢できても、眠っている間に掻いて悪化 してしまう。 主人が新聞か雑誌で、歯科用の金属によってアレルギー反応が起こる場合がある、 という情報を入手したので、さっそく皮膚科の先生に相談してみた。 要するに、歯に詰めあるてある金属によって、皮膚にアレルギー反応が出るということで ある。 金属アレルギーのパッチテストをすることになった。 私はその頃には、入院患者で一番元気かと思われる程になっていたので、予定通り 2カ月で退院しないといけないと思っていたが、パッチテストは判定に1週間以上かかっ てしまうため、やむなく、退院を約1週間延ばす事になった。 これを入院延長作戦と呼んでいる。 その日担当の看護師さんに話すと、 「山田さんは長くいてもらっていいですよ。」と言われた。 大きな手術だったからだろう。 私のような大きな手術は月にだいたい2人だそうだ。 ある日、カフェ・ミエルから病院に戻ってきたら、中井先生の外来の日で、外来でお世 話になった2人の看護師さんが診察室と待合室を出たり入ったりしていた。 その日の診察はほぼ終わった感じだったので、ご挨拶に行った。 もうオシャレしてお出かけしているし、すらっとしてすっきりして、元気なので、二人はとて も驚きつつ、喜んでくれた。 エレベーターを待っていたら、「郵便は旧館3階庶務課へ」という表示があったので、 以前から気になっていたのだが、旧館3階ってどこだろう?ということになり、主人と院内 探検することになった。 自分が住んでいるところが、それまで旧館だと思っていた(ボロいから)。 エレベーター内の表示を見ると、自分の部屋は本館で、渡り廊下の先が新館だ。 新館と旧館がつながっているらしい。 本館からの渡り廊下でつながっている1階のリハビリ室と2階の売店が旧館だ。3階には 本館から旧館への渡り廊下が無かったので、3階の新館に回ってみたら、そうそう、そこ は医局で、一般人は立入禁止。 医局の向こう側から旧館3階につながっているのかも・・・。 やむなく庶務課の探索は打ち切り、新館のエレベーターで上に行ってみた。 6階でドアが開いたら、すぐ右が手術室だった。 手術当日はぜんぜん怖くなかったのに、今になって怖くなった。 あわてて5階まで降りてきた。 5階をナースステーションに向かって歩きながら、岩城宏之さんの部屋はここだったのか なー?もちろん新館ではなく本館だ。 患者の入ってない部屋のドアが開いていて、トイレはもちろん、ミニキッチンも付いてい た。 ロビーまで来たら、副師長さんに会った。 ご挨拶してから、急に主人が、 「院長室はどこですか?」と尋ねたので、私はびっくりした。 「院長室は隠してあります。」と、副師長さんはふざけながらいつものニコニコ顔で答えた。 明らかに私たちは院長室を探索していたと思われてしまった。 1月中旬から、1日中起きていることも出来るようになった。 12月中はメールは主人に代筆してもらっていたが、年賀メールから自分でパソコンで打 つようになっていた。 でも長い作文は無理だった。 胸まで固定されているので、オーバーテーブルの上にノートパソコンを広げると、首を急 な角度に曲げなければならないので、すぐに疲れてしまった。 直筆の手紙を書くのは更に大変だった。 13日には2通書いてダウン。 その後、数日頭痛が治らなかったので、看護師さんにいつも飲んでいた鎮痛剤を飲んで もいいか尋ねた。 主人が肩こりじゃないかと、私の肩を触ったらカチカチだった。 メールと手紙が原因だ! 主人にずんぶん長い時間、肩を揉んでもらって、楽になった。 手紙とメールは当分禁止だ。 そんな事なら携帯メールでもやればいいのに、親指シフトキーボードのブラインドタッチが 当たり前の私は、とてもやる気になれなかった。 パソコンで日記でも書こうかと思っていたのに、結局、毎日ゴロゴロしながら新聞を読み 続けた。 1月16日の午後、なんだかにぎやかな様子がナースステーションの方から聞こえてき た。 何カ所かの大部屋で次々に盛り上がっている様子。 それがだんだん近づいて来て、私の部屋のドアがノックされた。Tさんだ! 「元気だった?」 「元気!元気!そちらはいかが?」 「ちょっと痛いけど・・・電車が怖くって・・・人を突き飛ばすように乗ってくる人もいるから。 今日はラッシュが怖かったから早く家を出て、6時半にはもう病院に着いていたんだ。」 「え〜〜っ!本当!大変だったね。」 「私は最近は角の千鳥が淵側のカフェに行ったり、この病院の並びのイタリアンの店に 食事にも行ったんだ。」 「もう外出できるんだ!」 「今月末には退院予定!」 「退院したら、定期的に診察に来るでしょ?診察って何曜?」 「中井先生の診察日は火曜と金曜。」 「じゃあ同じ曜日だ。また会えるかもね。」 「名刺のアドレスにメールちょうだい!」 彼との再会はとても嬉しかった。 彼は美味しいチョコレートをくれた。 この日の夕方、中井先生が部屋に来てくれた。 中井先生にはなかなか会えないので、近況を書いた手紙を数日前にナースステーショ ンに言づけたのだった。 1月19日、夕方、主人と母と一緒にカフェ・ミエルに行って、病棟に帰って来た。 ナースステーションに外出許可書の控えを渡していたら、気配を感じたので身体ごと振 り返った。 「あっ!!先生!!」階段室のドアの向こうに身体が半分入っていたのに、中井先生はのけぞ りながら、振り返った。 「こんにちわ!」と私。 先生は何も言わず、笑顔でアイコンタクト、そのままドアの向こうに消えて行った。 このシーンを主人も母も、目を丸くして見ていた。 部屋に帰って、3人で大笑い。 「中井先生の頭の上に吹き出しが出てたよね!『あっ!見っかっちゃった!』って。」 「出てた!出てた!」 「確かに出てた!」 中井先生は期待をはるかに超える、面白い先生だ! この日は中井先生の手術日で、手術が終わって、回復室に戻った患者の様子を見に 来た帰りだったと思われる。 このページのTOPへ戻る |
18.何かとおかしな入院生活 |
大部屋の患者さんには情報があっても、個室の患者は情報過疎だった。 売店でマジックハンドを見かけたことがあったが、向かいの大部屋の一番手前のベッド の上にマジックハンドが置いてあるのをある日見かけた。 岩城宏之さんは床に落ちたものを拾うのに石炭バサミを使っていたと本に書いてあった が、今はマジックハンドなのだ! 私も床に落ちたものを拾うことができず、主人か母がいるとき時なら良いが、いないと き時だと看護師さんの手を煩わさなければならなかった。 売店に買いに行った。 長さ50センチくらいで、手前のグリップを握ると、先端でものが挟める様になっている。 壊れるといけないからと主人は2本持ってレジに行った。 「2本買う人ってあまりいないですよね?」と店の人に尋ねたら、 「退院の時に5本くらい買って、各部屋に置いて使っている方も多いですよ。」と大真面 目で言われた。 主人が面白がって、売店の帰りに、病棟の廊下で看護師さんにマジックハンドで、後ろ からちょっかいを出そうとしたが私が制止した。 「あなたは面白くても、病棟では普通だから、看護師さんには面白くないから。」 大部屋の患者さんは皆持っているらしい。 部屋に備え付けもあるとか・・・。 もっと早く買っていれば良かった。 これがあれば、お風呂でパンツをはくのに苦労はなかった。 外出用のズボンの着替えも自分でできたのに・・・。 結局、退院までに買い足して、5本持って退院した。 ある日、リハビリで、床のものを拾うという練習が始まった。 右足を後ろに引いて、両手は左膝に置いて身体を支えながら前傾し、右膝を必ず床に 付いて、右手で拾う。 初めて右膝を付いた時、激痛が走った。必死に我慢して、物を拾う手順だけは覚えた。 その他は何も問題なく、痛みも無かったので、数日間このことを回診の時言うのを忘れ ていた。 右膝は術後ずっと感覚が鈍かったのだが、最近は回復してきていたのに、膝を付くと激 痛とは!やっと数日後に回診の先生に言うと、 「心配は無いと思うけど、様子をみましょう。」ということだった。 幸い退院までにはこの痛みも緩和した。 1月24日に初めて気がついた。 母が靴下を履かせてくれている時、右足は母の手が温かいと感じ、左足は冷たいと感じ た。 術前に中井先生から説明があった。 手術時に左の交感神経を横にずらすので、術後、交感神経の働きが悪くなって、左脚が 温かくなるだろうけど、半年くらいで治るだろうという事だった。 今まで気がつかなかったが、左脚が温かくなっていたのだ。 皮膚科で金属アレルギーのパッチテストのシートを背中に貼るために処置室で、コル セットを外した。 その時、上腿(ふともも)の上の方の直径2センチくらいの大きな痣(アザ)を皮膚科の 先生に見つかってしまった。 「それ、どうしたんですか?」 「尿管を貼っていたテープのところが水ぶくれになって、整形外科の先生につぶしても らったら、こんなになったんです。」と言った。 まだ寝たきりの時、尿管を太腿に止めていたテープのせいで水ぶくれができていた。 尿管を貼る位置をずらし、水ぶくれのところには、水分を吸い取る機能のあるテープを 貼ってもらったが、起きられるようになったある日、水ぶくれがそのテープいっぱいの 大きさに広がっていた。 看護師さんに見せたら、 「今、先生を呼んできますから。」と言って急いで部屋を出て行った。 皮膚科に行くからいいですと言おうと思ったのに・・・。 そんなにタイミングよく先生がその辺でうろうろしているはずもないし、看護師さんが帰っ て来たら、皮膚科を予約してもらおうと思っていたら、整形外科の先生を連れて戻って 来た。 しまった!と思ったが、その先生に水ぶくれをつぶしてもらうことになったのだった。 皮膚科の先生は気の毒がってくれていたが、お腹と背中と骨盤のところに総延長約 40センチの名誉の刀傷を持つ私は、そんな痣なんてどうでも良かった。 腕は皮膚炎だったけど、上腿は色白できれいな肌だったから、確かに可哀相な感じがし た。 「腕の皮膚炎の保湿で出しているヒルドイドを塗ってると、だんだん薄くなるから。」と言 われた。 結局、金属アレルギーは無かった。喜んでいいものやら?悲しんでいいものやら? 私のアレルギーは原因不明のまま。 腕の皮膚炎は相変わらずだったが、病棟の看護師さんが冷やすためのものを貸してく れたので、日中冷凍庫で凍らせて、夜、腕に当てて寝ていた。 絵の教室の生徒さんや、私の絵画の同志とも言えるKさんが、メールで連絡をくれて お見舞いに来てくれた。 「本当は大変だったんだよ。」と言いながらも、ついつい面白い出来事ばかりを話し続け た。 ある日、主人と、もう遅いけどちょっとだけカフェミエルに行こうと、着替えている最中に 主人がパソコンでメールを受信したら、チェンバロ奏者の岡田龍之介さんが、今こっちに 向かっている最中だというメールが入っていた。 「ちょうどコンサートの打ち合わせが早めに終わって、時間ができた。」とのことだった。 あわてて、元のパジャマに着替えた。 タイミングよくメール受信して良かった。 お見舞いに来てくれたのに、もぬけの殻だったら、どうなっていただろう? 危なかったな〜と主人と胸をなで下ろしたが、外出許可書には携帯電話の番号を書くこ とになっていたので、カフェミエルで一緒にコーヒーを飲むことになったんだろうと、ずっと 後になってから気がついた。 コーヒー通の岡田さんならそれも良かったかも。 病室でお迎えしたわけだけど、パジャマに着替えなくても、お出かけの服のままの方が 良かったのにと、これも退院してから気がついた。 お見舞いに来てくださった方々には、状況をメールでお知らせしていたので、14時間 の大手術を乗り越えて、予想以上に元気になっている、私を見て、とても驚き、とても喜 んでくれた。 入院時から毎日、部屋の掃除をしてくれた回数の一番多いダスキンさん(男性)に、 1月になって初めて話しかけられた。 他人の目にも元気になったのがわかったらしい。 毎日挨拶とお礼は必ず言っていたが、話しかけられたのは初めてだった。 「ウェッジウッドがつぶれましたね。」と言われた。 今ちょうど昨日の新聞のその記事を読んだところだった。 私が毎日、ミントンのマグカップを使っていたので、ヨーロッパのブランドの食器が好き なんだとわかっていたらしい。 それをきっかけに時々話をするようになった。 主な話題は政治と外交問題だった。 平山先生は毎日11時半頃、リハビリ室に呼んでくれた。 約30分のリハビリの間中、ずっと話し続けていた。 毎日毎日違う話題なので、感心した。 エレキギターの話、車の話、ラグビーの話、たいていは私は聞き役だったが、政治・外交 ・皇室の問題になると私も発言権を行使した。 母がある日、 「平山先生がおじいさんの歩行訓練をしていたけど、一言もしゃべってなかったわよ。」と 言った。 思わず吹き出した。 寡黙な平山先生と思っている患者もいるのかも。 退院が近くなったある日、この日は二人で国会議員の批判をしていた。 ちょうど、理学療法士の学生さんが見学で、ずっと私たちのそばにいて話を聞いていた。 リハビリの先生になると、こんな話題で討論できないといけないのかと、内心焦っていた のではないだろうか? ある日、そのダスキンさんに、講読の新聞を尋ねてみたら、うちと同じ新聞(一般紙) だった。 また別の日に平山先生にも尋ねてみたら、やはり同じ新聞だった。納得、納得。 皮膚科のパッチテストで退院が1週間近く延びたが、リハビリは退院の前日まであった。 もしあと1週間退院が延びていても、平山先生はリハビリに呼んでくれたのだろうか? 1月25日に、主人と二人で例のイタリアンでディナーをした。 その時主人が気がついた。 術前は椅子に座っていても、自力で身体を支えるのが困難になっていて、椅子に両腕 を突っ張るか、テーブルに肘をつかないと座位を保持できなかったのに、ナント私が普 通に姿勢よく座って、肘もつかずに食事をしていた。 私は言われて初めて気がついた。 しかも痛くもないし、辛くもない。 これは凄いことだ!! 早速翌朝、中井先生に感謝状を書いて、ナースステーションに持って行った。 ちょうど紙屋さんがいたので、言づけたら、 「院長へのラブレター渡しておきます。」と言われた。 ぜんぜんラブレターじゃないんだけど・・・、一番上に大きく「感謝状」って書いてあるし・・・、 でも、まあいっか・・・。 週1回のペースでレントゲン撮影があったが、1月27日は、入院中最後の撮影だった。 あの一番ボロかったレントゲン室に最新式のレントゲン機が入っていた。 技師さんがコントローラーに何やら入力すると「ウィ〜〜〜ン」とプレビューの音がする。 さすがデジタルで最新式だ。 その後本番の撮影。 寝た状態と立った状態の前面と側面の撮影をした。 ナントそのレントゲン機は脊椎全部を撮影できるのだ。 私は固定範囲が長いので、普通サイズのレントゲンだと固定した部分全体がちゃんと 納まらないことがあった。 このレントゲン機だと、脊椎全体が撮影できる。 後で見せてもらったが、私の身長だと、頭蓋骨の途中から骨盤まで撮影されていた。 どこのメーカーか、ちゃんとチェックした。 島津製作所だった。 天井の高さが足りなかったので、その機械の入る部分の天井を5センチくらい高くなる ように工事してあった。 ドアのペンキもきれいに塗り直してあった。 部屋に帰ると、主人が来ていた。 早速、島津製作所のレントゲン機の話をした。 最新式のレントゲン機で撮影されて、何だかルンルン! そんな患者って他にいないのかな? そういえば入院初日に、三宅先生が初めて部屋に診察に来てくれた時に、パソコンと最 新のソニーのデジタル・フォトフレームと最新のスピーカー付きウォークマンを見て、 「こういうの好きなんですか?」と尋ねられたが、こういうのってどういうのだろう?と答え に困った。 最新のソニー製品のこと?チェストの中には最新のソニーのデジタル・カメラが入ってい たけど。 でもパソコンは富士通の親指シフトキーボードモデル(限定500台?)だったが。 脊髄造影のレントゲン機もカッコ良かったし、どうやら私は最新のレントゲン機も好きなよ うだ。 病棟内は、杖なしの歩行が許されていた。 いつも廊下で歩行器で歩行の練習をしている、長身の60代の男性に声をかけられた。 「上手に歩いてるね。もう普通の人と一緒だね。」 いつも挨拶はしていたが、話すのは初めてだった。 「もうすぐ退院なんです。」 「へー、あんなに手術が長くかかったのに、もうこんなに上手に歩けて、もう退院なの?」 「もしかして、回復室で一緒だった方ですか?私の反対側の列の窓側のベッドで、私が 手術の日に10時40分に運ばれて来たって言ってた方?」その通りだった。 彼は看護師さんとよく親しく話していて、私が最悪の2日間、とても元気そうにしていた。 長い間、脊髄を圧迫されていると、手術をしてもリハビリが大変な場合が多いらしい。 でも彼は結構上手に歩けるようになっていた。 「頑張ってくださいね!」 退院が近くなると、回診の時、たまたま部屋を空けていると、先生方が別の部屋に行っ てしまっている。 廊下を帰ってくると、病棟の患者のカルテのファイルが乗ったキャスターが廊下に置いて あるので、どの部屋にいるかがわかる。 その場で先生方が出てくるのを待っていたり、先生方が出てきでたところに私が帰って 来たりする。 「私、トイレに行っていたんですけど、回診、とばされちゃいましたか?」 師長さんが私のカルテのファイルを出そうとしているのに、先生は 「山田さん元気に歩いてるし、大丈夫だね。」とその場ですぐに回診が終わってしまう。 皮膚炎以外はどこも不調は無かったが、部屋に回診に来てもらえないと、ちょっと寂しい。 1月30日金曜に退院することになった。 1月28日、部屋の掃除に来てくれた例のダスキンさんに、 「明後日退院します。お世話になりました。」と挨拶した。 「本当に良い病院に巡り逢えて、元気になって良かったね。昨日入院してきた5階の男 性は、いくつもの病院にかかって、やっと九段坂病院と出会って、5カ月待ち200人待ち でやっと入院できたって、喜んでたよ。」と言われた。 入院中にいろいろ九段坂病院情報が入ってきた。 主人がタクシーに乗って、 「九段坂病院まで。」と言うと、運転手さんは、歩けなくなっていた知り合いが、九段坂病 院で手術してすっかり良くなった。」と言ってたとか・・・。 退院前日、朝食が終わって、トレーを廊下にあるワゴンに返しに行ったら、ばったり 中井先生に会った。 「あっ!先生!おはようございます!」 「歩きにくそうだね。」と先生。 脚長差のせいで、靴下を履いていないと右のスリッパを引きずってしまう。 「そうでもないです。靴下を履くか、靴なら大丈夫です。」 「じゃあ、今度は外来で!」と中井先生は言った。 そうだ、質問があったんだ! 「先生!楽器はいつから弾いていいですか?」 ヴィオラ・ダ・ガンバはチェロと違って、エンドピンが無いため、両脚の間に保持しなけれ ばならないので、腰に負担がかかってしまう。 「(すぐでも)いいんじゃないの〜?」という答えだった。 そして317号室に入って行った。 部屋に帰って来て、先生にもう一つお願いがあったことを思い出した。 中井先生が手術直後の患者を見舞うのは、たった3秒だとわかっていたので、あわてて 部屋を飛び出したら案の定、先生はもう後ろ姿で、ナースステーションの方に歩き始めて いた。 「先生〜!お願いがあるんですけど〜。」と呼んだ。 部屋に来てもらって、 「私の愛読書にサインを!」と岩城宏之さんの「九段坂から」を出した。 「僕がサインをするのも変だけど・・・」 「先生のお名前が載ってるところに。」と言って、鼎談の中扉のページにサインをしてもらっ た。 私の愛読書が、私の宝物になった。 このページのTOPへ戻る |
19.大きな引っ越し |
退院前日は、ちゃんと部屋に回診に来てもらえた。 「退院おめでとうございます。」 「おかげさまで、ありがとうございました。痛みも無いし、元気になりました。本当に皆様に 良くしていただいて、とても楽しい入院生活でした。」 この日は雨が降っていた。 副師長さんが空模様を見ながら、 「三宅先生、寂しくなっちゃうわね。」と言ったが、私が急に寂しくなった。 これが最後の回診なんだ。 日中担当の看護師さんに、 「この部屋も明日でなくなっちゃうのね〜寂しくなるわね。」と言われた。 リハビリの時間は平山先生といつもの通りおしゃべりをして、最後にお礼を言って、部屋 に帰って来たが、昼食を食べながらまた寂しい気分になった。 入院中、ほとんど真っ青な空を映していた窓が、今日はグレーで静かに雨が降っている。 私の心を映している様だ。最後の日に夕方の美しいグラデーションが見たかったが、叶わ なかった。 それでも、くすんだ紫の色調の変化は美しかった。 航空障害灯の赤い点滅が霧雨ににじんでいた。 入院中、主人が来たらふざけたことばかり言っていたが、この日は言葉少なく、過ぎ行く 時間を惜しんでいた。 夕食はなかなか喉を通らなかった。 でも、最後の夕食なので、一生懸命、全部食べた。 主人が帰った後、テレビなど見る気もせず、静かな音楽を聴きながら、少しでも長くこの 時間が続いてほしいと願った。 2カ月以上過ごしたこの部屋とも今晩でお別れだ。 辛かったことより、いっぱいいっぱい嬉しかったことばかりが心に浮かんだ。 涙がほほをつたったが、いつしか静かに眠りに落ちた。 暗い空が、次第に明るいトーンに変化していった。 今朝も静かに雨が降りこめていた。いつものように空を眺めながら、朝食をとった。 豆を甘く煮たものは好きではなく、いつも少し残していたが、これが最後の朝食と思うと残 せなくて、完食した。 午前中に三宅先生の退院前の診察があった。 脚長差は改善されていなかったが、筋肉痛はとっくに治っていたし、膝の感覚と痛みも改 善していた。 トイレは相変わらずウォッシュレットが必要だったが、1月初旬に三宅先生に「絶好調」と 言った時より更に「絶好調」だった。 最後にお礼状と私の絵はがきを差し上げた。 三宅先生とはまた会えると思っていたが、名残惜しかった。 退院後、外来の時も会えないまま、数カ月後、転勤になってしまった。 昼前に主人と母が来て、荷物を整理してくれた。 昼食までお願いしてあったので、12時に私の昼食が届き、3人でランチタイムになった。 主人と母はお弁当を買ってきていた。 二人はおしゃべりしていたが、私は窓の外を見ながら、一人で寂しい気分になっていた。 寂しくて食欲がなかったけど、最後の昼食も完食した。 食後、荷物整理の続きだが、私は前傾も出来ないので、何の役にも立たず、邪魔にな るので、ベッドに寝させられていた。 1週間ほど前からいらないものは少しずつ持って帰ってもらっていたにもかかわらず、大 変な大荷物になった。 どこにこんなにたくさん入っていたのだろう? 荷物を運ぶためにスーパーのカートのようなものが、病院に用意されていて、上の段と下 の段に積んで、主人が部屋と車の間を何度も往復もした。 入院は小さな引っ越しだったのに、退院は大きな引っ越しになった。 荷物を運んでいるのを見かけた看護師さんが、 「山田さんもうすぐ退院ですか?」と主人に尋ね、 「今日、退院です。」と答えたら、驚いていたそうだ。 ここ数日担当の看護師さんにはご挨拶したし、助手さんや、他何人かの看護師さんにも ご挨拶したが、知らない方も多かったようだ。 ようやく片づいたので、紙屋さんを呼んでもらって、中井先生にことづけをした。 紙屋さんには入院前、最後の自己血採取の時に初めて会ったが、この人は何てパワー があるんだろうと感じた。 しかし、退院の日、話をしていて自分がパワーアップしているのを感じた。 あっ!ちょうど紙屋さんと張り合えるほどのパワーになってる! ナースステーションにご挨拶に行ったら、ちょうど多くの看護師さんが集まっていた。 師長さんをはじめ、皆さんにお礼を言ったが、とてもとても言葉では伝えきれない感謝の 気持ちでいっぱいだった。 ひとことずつお礼を書いた絵はがきを、皆さんにと師長さんに渡した。 1階まで降りて、外来の二人の看護師さんに挨拶しようと、整形外来のロビーのソファで 待っていた。 紙屋さんが通りかかって、 「院長いない?」と言う。 別に中井先生に会おうと思っていた訳じゃないんだけど・・・、 診察室をのぞいてくれたが、いなかった。 二人の看護師さんに会えて、ちょっと話をしてお礼を言った。 うっかり頭を下げようとしたが、 「ダメダメ」と言われる。 「前傾はダメ、お姫様のごあいさつでなきゃ!」スカートをつまんで、ちょっと膝を曲げて ご挨拶。 紙屋さんは何とか中井先生に会わせてくれようとしてくれた。 「奥のソファに座って待ってれば通ると思うから。」と言うが、雨も降っているし、主人が車 の中を整理してくれていたが、もう出発の準備も出来るだろうから、出口のそばの椅子に 座って、奥の通路の方を見ていたら、本当に中井先生が通った。 雨が降りしきる中、九段坂病院を後にした。 お掘りに沿って左に曲がった、もう九段坂病院は見えなかったが、ずっと九段坂病院の 方向を見つめていた。 楽しかった分だけ、寂しい気持ちが深くなった。 車のシートとヘッドレストの形と角度と位置が、私のコルセットで固定された身体と全く 合わず、車に乗っていることがとても辛かった。 1時間数十分、狭山の自宅まで耐えたが、これからのことが思いやられた。 自宅に着いたが、また私は役立たずで、椅子に座っておとなしくしていて、主人と母が 片づけてくれていた。母が、 「コートはどこにしまうの?」と言うので、コートをハンガーごと受け取って、行ったり来た り、クローゼットに入らないし、キャスター付の洋服掛けにもかからない。 うろうろしているうちに脚元の荷物を踏んで、転んでしまった。 「転ばないように。」は入院中から言われ続けてきたのに・・・。 母が帰ってから泣いてしまった。 入院中、どんなに辛くても泣いたことなんてなかったのに、自然と涙が出ることはあった けど。 「病院では一番元気だったのに、家に帰って来たら何にも出来ない。病院に帰りたい・・・ 病院に帰りたい・・・」 その後、取って置きの赤ワインを開けて、主人と退院を祝ったが、ベッドに入ったら、 また病院が恋しくなって、泣きながら眠った。 このページのTOPへ戻る |
本日、2010年1月30日は退院1周年記念日です! 退院後、4キロも太ってしまったので、今日退院後、初めてウォーキングをしました。 退院後と書きましたが、退院前数年間はあまり歩けなかったので、 それ以来初めてのことでした。 春のような陽気の中、主人と片道15分(往復30分)元気に歩いて、 カフェ・ド・ちゃぁみぃに行ってきました。 まさか連載に1年かかるとは思いませんでしたが、次回、最終回です。 多くの皆様にご愛読いただき、ありがとうございます。 |
20.ベルギーからの便り |
退院翌日は10時頃まで寝ていた。入院生活で早起きは得意になったはずだったが、 家に帰って来たとたんに、朝が苦手な元の状態に戻っていた。 昨日大きな引っ越しで、疲れていたのかもしれない。 まずは美容室を予約した。ブランチを済ましてから、主人の運転で川越のブティックに 行った。入院中、お出かけに着ていたのはこの店で買ったルイスキャロルのジャンパー スカートだった。 この日もそのジャンスカでお店に行った。固いコルセットをしているとウエストが80センチ 以上になってしまうので、着られる服が少ないのだ。 病院から電話して、ドロワースを取り置きしてもらっていた。ドロワースとは、フランス人形 がドレスの下にはいている、レースの付いた木綿の薄手の下着のズボンのことだ。 手術で胸椎10番から腰椎全部を固定したので、背骨がほとんど曲がらない。 コルセットを外してからも一生、曲がらない。 ということは一生、ストッキングもタイツもはくことができない。 スパッツはもしかしたらはけるようになるかもしれない。 ドロワースはパジャマのズボンの様なものなので、自力ではけることがわかっていた。 手術前から何色も持っていて、愛用していたが、ドロワースしかはけないとなると、黒も必 要になった。 ブティックのお姉さんも私の手術のことを心配してくれていたが、元気な姿を見て、安心 してくれた。 「背が高くなったでしょ?」と言ってクルッと回って見せた。 「今は固いコルセットをしているけど、しなくなったら、またいろんなワンピースが着られる ようになるので楽しみ!」と話した。 ルイスキャロルのはロング丈でレースがいっぱい付いていた。 ガーランドは程よい丈で、私が持っているパミエとお揃いのレースが付いていた。 迷った末、両方とも買った。 次に美容室に行った。 「入院中のヘアスタイル、バッチリでした。おかげさまで。」とお礼を言った。 カラーとカットをしてもらっている間、病院での面白かった出来事をいろいろ話した。 次にお花屋さんに行った。 「山田さん、久しぶりですね〜」チーフバイヤーの神田さん。 「だって、2カ月入院してたんだもん!」 「えっ!どうかしたんですか!」彼には手術と入院の話はしていなかったので、驚かれて しまった。概略を話し、 「ほーら、背が高くなったでしょ?」 「あっ!ホントだ!!」 夕方になって最後に、ママさんがお見舞いにも来てくれた、カフェ・ド・ちゃぁみぃに行っ た。 「昨日退院しました〜!」ママさんにはお見舞いに来てくれた時、背比べをして、手術の成 果を納得してもらっていたが、マスターにも自慢した。 ママさんがカウンターに入ったので常連の上品なおじ様Fさんの隣の席に座って、コーヒー とケーキを注文して、 「九段坂みやげ〜」と岩城宏之さんの「九段坂から」を渡した。Fさんが、 「わたしもその本読んだ。」と言った。 マスターとママに手術の話をしていたら、Fさんにどんな手術だったのか尋ねられた。 「腰椎全部と胸椎10番から12番までを矯正して固定する14時間の大手術!この本の 中井先生に手術してもらったの!」と自慢した。 彼は前年の冬に聖路加国際病院で腰椎の手術を受けていた。 彼とはそれまで1度しか話したことがなかったが、親身になって喜んでくれた。 その数カ月後、コンサートの帰りで、西武新宿線の高田馬場駅で特急を待っていた時、 ばったり出会って、更に元気になっているので、またまた喜んでくれた。 脊椎の手術を受けたもの同士だから分かり合える何かがある様だ。 今日の挨拶回りはこれで終了。 今日の移動は全て車だったが、昨日と違って、車のシートに座っていることが馴れてきた 様だ。 帰ってから、主人とワインタイム。 入院前の習慣が戻ってきた。 その後、愛用のデスクトップ・パソコンで、応援してくれていた多くの方々に、メールで退院 を知らせた。 昼間は気が紛れていたが、寝る前になったら、また病院が恋しくなった。 その翌朝も寝坊していた。 10時過ぎに千成先生から電話がかかってきた。 昨夜メールで退院をお知らせしてあった。 私の元気そうな声を聞いて、とても喜んでくれた。 先生の声を聞いて始めて、ホッとして、退院してきて良かったと思えた。 午前中、家電量販店に行って、冷蔵庫の選定と交渉。 私が入院中、冷蔵庫が壊れ、主人が近所の家電量販店で、家庭用にしては大型の物を 買ったが、扉に問題があり、2回交換。 それでもダメで、別のメーカーのものに代えるということで、店に行った。結局気に入った 物は、家庭用最大のものだった。 主人が何度も冷蔵庫の入れ替えで、大変な思いをしていたので、元の値段で最大の物と 交換してもらおうと強気で行くことにした。 しかし担当者はすんなり、最初からその値段を出してきた。 何回もの交換で嫌になっていたが、この対応が良かったので、この店は得意客を失わず に済んだ。 最新のレントゲン機も良かったが、家庭用最大の最新の冷蔵庫もいいな! 庫内が広くてたくさん入る。 ワインと日本酒が半分以上を占めているが・・・。 野菜が今までの2倍以上長持ちする。 シルバー系なので前に吊るしてある観葉植物が映ってきれいだし、狭いキッチンが広く見 える。 主人は苦労したけど、結果は良かった。 夕方、カルフールへ買い物に行った。 カルフールはフランス資本のスーパーだ。 現在はイオン系になっているが、それでも品揃えは他のスーパーとは違う。 ここ数年はスーパーで買い物をしたことがなかった。 スーパーの中を歩くことすら辛くて、できなくなっていた。 私が駐車場の車の中で待っていて、主人が買い物をしてきてくれていた。 久しぶりの食品の買い物を楽しんだ。 自分でも信じられなかった。 こんなに長時間起きていられるだけでも凄いのに、こんなに歩いても全然平気。 チーズ、ラム、野菜、パン、などワインに合う物を中心に、カート2段分いっぱい、1週間分 の食材の買い物をした。 店と立体駐車場が一体となっているので、カートのまま車まで運べる。 荷物の積み下ろしは当然、主人の仕事。 今晩は近所のイタリアン。シェフご夫妻も私のことを心配してくれていた。 またまた辛い話より、笑い話ばかりしてしまった。 近所のお店屋さんのおばちゃんにも会った。 「あら〜〜っ!恵子先生すらっとしちゃって!」 隣接するラーメン屋さんとうどん屋さんにも挨拶に行った。 術前、私も時々食べに行っていたが、私が入院中、主人は毎晩どちらかの店で夕食を食 べていた様だ。 みんな私に会って驚く。 背が伸びたこともそうだが、すごく元気そうに見えるらしい。 九段坂病院で身体と共に心も健康になったのだと思う。 平日は一人で、まだ危ないので出かけることもないので、またまた寂しい気分になってし まう。 入院中は、まず看護師さんが起こしに来てくれて、助手さんが蒸しタオルを持ってきてくれ る。 血液検査のある日は8時にロビーに行く。 看護師さんが朝食を持ってきてくれて、終わったら廊下のワゴンに返しに行く。 午前中は検温と血圧測定のために看護師さんが来てくれて、回診は整形の先生と師長 さんと副師長さん、日によって皮膚科に呼ばれる。 11時半にはリハビリに呼ばれる。午後は週1回くらいレントゲンに呼ばれる。 トイレに行くだけでも、看護師さんや患者さん何人にも会える。 入院前は一人でいることが好きだったのに、退院してきたら一人でいるのが寂しくて、 病院が恋しくなってしまう。 テーブルの上を拭くにも苦労する。 料理を作るにも、片づけ物をするにもアイロンをかけるにも、前傾しなければ出来ない。 当然顔を洗うことも出来ない。 絵を描く以前の問題、日常的な事が何もできない。 洗濯だけはマジックハンドを使って出来る様になった。 楽器を弾く勇気と元気がない。 こんな私に唯一無理なくできることがあった。 デスクトップ・パソコンはコルセットで固められた不動の状態で椅子に座って、私はブラ インドタッチだからキーボードを見る必要がない。 画面はノートパソコンと違って、位置が高いので、自然に前を見る姿勢で見ることができ る。 無理に日常的なことをして、無理をしてしまったり、できなくて落ち込んでしまったりするよ り、今のうちはパソコンでできることをしていようと決めた。 年賀状をくださっていた方々に、パソコンで寒中見舞いを書いた。 翌日は、パソコンで入院日誌を書き始めた。 1日に付きたった1行か2行のメモしかない。 でも時々中井先生との会話などメモしていたりした。 入院日誌を書いていると、寂しい気持ちが癒された。 その時の状況が脳裏によみがえり、楽しい気分で心が満たされた。 病院でお世話になった方々にもっともっと感謝の気持ちを伝えたかった。 また、身体と共に心まで生まれ変わることのできた、貴重な入院生活の記憶を、自分の 中で一生風化させてはいけないと思っていた。 入院した時は、自分の個室の環境をできる限り自宅の環境に近づけようとしたのに、 退院したら、病院が恋しくて、できる限りベッドルームを病院の私の部屋に近づけようと 努力した。 日中も時々横になるので、オーバーテーブルの代わりに、動かしやすいワインテーブルを ベッドの脇に置いて、読みかけの本や雑誌や新聞を上に置いた。 術後ずっと愛用していたストロー付きのコップも、いつもほうじ茶を入れてワインテーブル に置いていた。 簡単には起き上がることができないので、寝たまま飲めるこのコップはとても役に立つ。 うちのマンションの部屋からはほとんど空は見えなかったが、入院中毎日眺めていた 青い空を何とか手に入れようと、曇りガラスだったベッド側の窓を1枚だけ透明なガラス に取り替えた。 起きていたら、ちょっとしか空は見えないが、ベッドに寝ると3分の2は空になった。 固いコルセットをしていると着られる服が限られてしまう。 普通のズボンははけないので、ウエストがゴムのカジュアルなズボンのすそに母にレース を付けてもらった。 ワンピースはすそを踏んだりしたら危険なので、当分着ないことにした。 春から着られるチュニックは2着しかない! 先週のブティックには無かったので、ネットでピンクハウスを調べた。 あったあった、理想のチュニックが。 全身がフリルでヒラヒラ、これならコルセットをしていてもわからない。 電話で都内の店舗に問い合わせたが、欲しい色は売り切れ、川口店に何色か残ってい た。 退院後8日目の土曜、主人と車で川口のそごうまで行った。 道路が混んでいて片道2時間近くかかった。久しぶりのピンクハウス。 いろいろ見たけど、やっぱりネットで見つけたチュニックが一番良かった。 色は迷ったが、薄い赤紫にした。 ピンクということらしい。でも微妙でとてもきれいな色だった。 その後、3月発売の春物の中にもちょうど気に入ったデザインで着られるものが2種類 あったので、これは上野店でゲットした。 往復3時間以上かかって、川口から帰って来た。 相当疲れていたが、それだけ長時間、車に乗っていられたのは、進歩だった。 自宅マンションに帰って来て、ポストから郵便物を取り出したら、エアメールが届いて いた。驚いて裏を見たら。 ベルギーからで、W.K.と書かれていた。 このイニシャルはもしかして!! 部屋に帰って開封したら、やっぱりヴィオラ・ダ・ガンバの巨匠ヴィーラント・クイケン氏か らだった。 入院中、私の病室の窓のところにずっと飾ってあった、写真立てのツーショットの人だ。 私の身体のことを気遣ってくれている内容で、奥様のセシールさんと連名だった。 消印は2月2日、退院直後だ。 千成先生が知らせてくれたのかな?と思い、メールしてみたら 「きっとテレパシーでしょう。」という返事だった。 私は手術のせいか、いくつか記憶がすっ飛んでしまっていることがあった。 そのひとつが、手術前にヴィーラントさんに手紙を出したことだった。 個展で千成先生と一緒に演奏した写真を入れたカードにその報告と、もうすぐ手術だとい うことも書いて、入院直前に送ったことをすっかり忘れていた。 昨年3月のヴィーラントさんと千成先生のデュオ・リサイタルの仙台公演の帰り、新幹線を 待っている時に、千成先生が私の手術のことをヴィーラントさんに話した。 大宮駅で別れ際に、 「手術頑張って!!」と言われた。もちろん英語で。 退院2カ月後の3月末に息子のピートさんが、昨年に引き続きフォルテピアノのソリスト として招かれて来日した。 セシールさんも一緒に日本に来ていて、演奏会の休憩時間に千成先生に会った時、一番 に私の体調のことを尋ねてくれたそうだ。 私は手術のことなどあまり知らせず、ひっそりと手術を受けて、絵の世界はもとより、 古楽の世界からも忘れ去られるだろうと思っていた。 しかし、直前に個展をやったこともあり、また古楽の世界でもいろいろなきっかけで、知っ てくれる人が多くなり、おかげで多くの人に応援されながら手術を受け、術後の生活を送 ることになった。 手術に向かう時の勇気、回復へのパワーは多くの方々の応援のおかげだったのだと実 感する。 ベルギーからもヴィーラントさんご夫妻が応援してくれていたのだ。 その日、退院後初めてヴィオラ・ダ・ガンバを弾いた。 入院の前日まで弾いていたが、2カ月半ぶりで、上手には弾けなかったが、以前と何か響 きが違う。 手術を通して私の中の何かが変わった。 そしてガンバの音色も少し深くなった気がした。 |
〜完〜 このページのTOPへ戻る |
軽井沢ヴィラセシリアにて 2009年8月(コルセットが全て外れた翌月) |
ちょっとあとがき〜そして現在 |
長編の入院日誌におつきあいいただき、ありがとうございました。 私が入院日誌を書くことになったのは、実は中井先生が主人公の、4コマ漫画を描こう! というのが、ことの始まりだったのです。 術前の自己血採取であれだけ面白かったから、入院したら漫画のネタには尽きないだろ うと思ったのですが、予測違い。 入院中の主治医は三宅先生で、中井先生には時々しか会えなかったため(手術では14 時間も独占しましたが)、当初の計画は断念。 しかし、入院してみると、九段坂病院全体が楽しい空気に包まれていて、私の周りでも 次々と面白い事件が起こったのです。 そこで、退院翌日から文章でノンフィクション・ギャグを書くことになったわけです。 中井先生をはじめ、三宅先生、手術スタッフの皆様、回診でお世話になった先生方、 3階病棟の看護スタッフの皆様、平山先生、九段坂病院でお世話になったすべての方々 に感謝を込めて、入院日誌を書かせていただきました。 私の入院生活は、前半生のうちで一番たくさん「ありがとう」を言わせていただいた、尊 い日々でありました。 手術から約1年4カ月、グレゴリオ音楽院に復学して約半年の先週の日曜日(2010年 3月21日)、音楽院の発表会で演奏しました。 古楽科ヴィオラ・ダ・ガンバ・クラス全員と千成千徳先生でコンソート(合奏)を、先生との デュエットではフランスのロココの曲、ボアモルティエのソナタ5番を演奏しました。 天から光が降り注ぐ中、幸せに満ち足りた気持ちで演奏させていただきました。 手術の翌日、手も足もほとんど動かなかった時、この日が訪れることを信じることができ たでしょうか。 大手術を乗り越えての復帰。まさに至福のひと時でした。 |
千成千徳先生とのデュオ(本番) コンソート(合奏)リハーサル この姿勢をご覧ください、手術の成果です! |
改めて、九段坂病院の皆様、応援してくださった皆様、ありがとうございました。 2010年3月28日 ※グレゴリオ音楽院はカトリックの音楽院で、 正式名称は 宗教法人 聖グレゴリオの家 宗教音楽研究所。 教会音楽科と古楽科があり、古楽科は信仰に関係なく入学できる。 |
手術〜退院〜画集の出版 |
術前の作品をまとめた画集を2009年6月に出版いたしました。 脊椎側弯症の悪化という絶望に向かいながらも、常に希望の光を描き続けた、私の9年 間の軌跡です。画集の題名は「INFINITE LIGHT」(無限の光)としました。 身体への負担を考えても、術前のような緻密な写実作品を描くことは、今後はないだろ うと入院中から考えてきました。 古楽情報誌アントレの4年間の連載では反響が大きかったこともあり、この機会に、画集 の出版を思い立ち、退院2週間目よりパソコンで画集の編纂を始めました。 現在一般のオフセット印刷は全てパソコンのデータにより作業が進められます。 もともとグラフィック・デザイナーだった私は、グラフィックソフトを使って、撮影してあった作 品の写真の色補正から、デザインの全てを自分で行い、懇意の写真印刷専門の印刷会 社に依頼しました。 担当者の方にご尽力いただき、原画の色彩はもちろん、空気感も再現された美しい画集 に仕上がりました。 作品をご覧になりたい方は、当ホームページのギャラリーをご覧ください。 2000年〜2008年までの絵画作品を全て掲載しております。 画集をご希望の方は、こちらよりお申し込みいただけます。 画集も買ってね! このページのTOPへ戻る |
術後3周年を前に個展を開催、オープニングコンサートで演奏しました |
術後3周年を目前に控えた10月初旬、術後の作品初の個展を開催することが出来、 そのオープニングコンサートで千成千徳先生とヴィオラ・ダ・ガンバのデュエットをしました。 絵画作品の制作は退院後1年の2010年2月に始めましたが、腰椎全てと胸椎の下3つを 固定されているため、前傾出来ないので、非常に困難でした。 私は長年、垂直なイーゼルではなく、斜めになるデザイン机の様なイーゼルで描いていた ため、股関節で曲げて前傾しても、1時間くらいで背中が痛くなってしまうため、寝なければ ならないような状態が続き、写実ではなくシンプルな画面になったにもかかわらず、想像 以上に制作は困難でした。 絵の内容は手術直後の心象風景が主になりました。 あまりにも鮮烈でありすぎ、それを描かざるおえないというか、それこそ描きたいものと なりました。 それまでの写実を通して間接的に伝える方法から、直接的に伝える方法に変ったとも 言えます。 苦しみの中に、常に希望の光を見い出し続けていたその時の事を描くこと、その時の 真実の自分を描き出すことで、きっと見てくださる方に伝わるものがあると信じて、1年半 描いてきました。 個展の3カ月前、2011年7月、病室の一部を描く縦長の絵に着手しました。 細かい描写に移ると、縦が91cmあるため、イーゼルをほぼ垂直に立てなければ描けま せん。やむなくその状態で緻密な部分、バラのドライフラワーを描き始めました。 術後2年半、絵画制作を再開して1年数カ月、試行錯誤の末、立ったまま垂直なイーゼル に向かって描いている自分を発見し、驚きました。それが意外に楽なのです。 中井先生の初診で「手術したら、立って絵が描けるようになりますよ。」と言われたのは、 本当だったのです。 直後に定期診察の日でしたので、先生にご報告しました。 先生はまた悪い冗談を言ってましたが、とても喜んでくださっていた様です。 絵を描き始めてからずっと、中井先生に「絵を描くと胸椎が痛い」と訴え続けていたのです。 手術から2年半経って、やっと自分の身体の使い方がわかってきたんですね。 この作品は術後初の写実です。でも写実に戻ったわけではありません。 あのボロい病室の一部に「美」を見いだし、私が2ヶ月間住んでいた病室の象徴の様な 絵を残しておきたかったのです。 2015年に九段坂病院は移転するそうです。 最新のきれいな病院になるのは嬉しいけど、それなら余計に、想い出深いあの私の部屋 を絵画作品にとどめておきたい。 そこは私が肉体の苦痛と戦った記憶、だからこそ感じられた喜びが詰まった部屋だった のです。 生きていることの奇跡、回復していくことの奇跡、他人によって生かされているという真実 の発見。私の人生において何処よりも何よりも濃密な時間と空間でした。 その作品は個展の搬入の数日前に無事完成し、展示することが出来ました。 作品「319号室」はギャラリーUをご覧ください。 個展で千成先生とサント=コロンブの「回帰」を演奏して復帰するということは、入院中か らの夢であり、千成先生の退院のお祝いの言葉は「またたくさん絵を描いて、個展で一緒 に演奏しましょう」でした。 その夢を実現することが出来て、とても幸せを感じています。 曲目は、サント=コロンブの「回帰」、次ぎにクープランの「王宮のコンセール13番」、 最後にサント=コロンブの「ルージュビユ嬢」のシャコンヌでした。 新しい作品も、お客様方にご理解また共感いただくことが出来、とても嬉しく思っており ます。 私を応援してくださった皆様に、改めて感謝申し上げます。 術後の絵画作品を全てギャラリーUに掲載いたしましたので、ご覧ください。 フォト・ドローイング作品はアントレ表紙展に掲載しています。 2011年11月7日 |
リハーサルはちょっと緊張 |
本番は、先生との音楽の対話が楽しくて、音楽に没頭 |
演奏終了後、「音楽の会話がたくさん出来て楽しかった」と先生に言っていただき、二人とも幸せな笑顔 |
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脊柱側弯症の手術について〜患者の立場から〜 |
特発性脊柱側弯症の患者さんやご両親の方々もお読みになっていることと思います。 私の成長期(30年前) に比べ、現在では脊柱側弯症の手術方法も進歩しています。 30年前は1年間入院が必要でしたが、現在は1ヶ月程度だそうです。(若い方の側弯症の手術の場合) 私は重度まで進行していたにもかかわらず、当時すぐに手術を薦められなかったので、 成長が止まると、病院に行くこともなく、20代から30代前半にかけては、悪いなりに安定して いましたが、30代後半から痛みが酷くなり、40歳を過ぎてから目に見えて症状が進行しま した。 45歳での中井先生の初診では腰椎変性側弯症と診断されました。 脊柱側弯症が原因となって、年齢を重ね、腰椎がねじ曲がり、腰椎の椎間板の前の部分が 3カ所つぶれて固まって、側弯症より腰椎の後弯の方が深刻な状態でした。 手術方法は、腰椎変性側弯症、腰椎後弯症などに対する術式「後方前方後方三段階矯正 固定術」だったため、長時間の大手術となりました。 若い方の脊柱側弯症の手術とは違いますので、どうか誤解のないようにお願いいたします。 とは言っても、脊柱側弯症の手術は浸襲の大きな手術です。 脊柱側弯症の手術のことを知りたい方は、「脊椎手術ドットコム」http://www.sekitsui.com/ をご覧ください。手術方法の動画も載っています。 ご本人もご両親も、手術について学んでおくことが大切です。 現在のところ、脊柱側弯症の手術は固定しか方法がありません。 固定範囲と固定の部位により程度は違いますが、当然、固定された部分は動かなくなり、 不自由を感じると思います。 背中の傷跡は、個人差がありますが、私の場合は1年半くらいで、目立たなくなりました。 特発性脊柱側弯症の患者さん方が、信頼できる医師にめぐり逢い、手術が必要な方は、 ご本人にとって適切な時期に、良い手術を受けられるように、願ってやみません。 私にとっては、46歳という年齢が、全ての面において、最も適切な時期でありました。 私としては、特発性脊柱側弯症の方も九段坂病院を受診されることをお薦めしたいと思い ます。 若い頃からの側弯症が悪化して、お困りの方は、是非、九段坂病院を受診してください。 (2013年2月14日更新) |